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慶應義塾大ソッカー部主将戦記

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Flexibility

「金メダルを取れなかったことは、悔しいけれど、収穫の多い大会だった。」語りだしたMF中町公祐(4年=高崎高、前湘南)は、意外にも充実した表情を浮かべた。

 セルビアの首都ベオグラードにて開催された第25回ユニバーシアードに、サッカー男子日本代表(全日本大学選抜)の一員として、また慶應ソッカー部の代表として臨んだ中町は、銅メダル獲得に貢献した。全日本大学選抜は、1995年福岡大会の初優勝以降、大会三連覇を達成するなど、優勝を絶対条件に全国の大学から結集された「全員が金メダル奪取の責任を感じて取り組んできた」チームである。
 だからこそ、優勝できなかったことに対する後悔は大きかったはず。特に、絶対的な技術と経験を持つ中町にとっては、サブに回ることも多かった今大会は、悔しい気持ちに溢れているのだと思っていた。しかし、彼の口からは、悔しさ以上に大会で得たものの大きさに納得した言葉を聞く事ができた。

 「技巧派の千明聖典(流経大4年)に代え、運動量の中町を投入し、流れを変えたかった。(秋田監督)」ベオグラードから送られてくるゲキサカニュースを見て、ソッカー部の部員は顔を見合わせた。「マチが運動量?」。ソッカー部における中町は、その卓越したサッカーセンスでピッチの中央に君臨し、個性豊かな周囲の選手を活かす印象が強い。
 勿論、攻守に顔を出すスタミナには定評があるが、“運動量”のステレオタイプには、似つかわしくない“技巧派”のプレーヤーである。「走力」に関して言えば、ソッカー部の中では、「マチより走れる」と名乗り出る選手は何十人もいるだろう。それゆえ、“運動量”は不可解な形容詞だった。

 しかし、全日本大学選抜と言う組織において、彼が役割を全うし、このように形容されるプレーに徹したと、そのニュースの本意を読み取ることは容易だった。
高卒でプロになり、湘南ベルマーレで4年間を過ごし、それからソッカー部(当時、関東2部)に入部、2年年下の大学生に混ざりプレーをする。これほど異色な経歴を持つ人は、数少ない。そして、様々な組織で、多くの価値観を持った選手の中で、6年間を費やしてきた経験から、彼は最大のストロングポイントを手にすることができたようだ。
 それは、卓越した技術でもフィジカルでもなく、「Flexibility(順応性)」ではないだろうか。「技術の高い選手が集まるのは当然、その中でチームが勝つために何が出来るかを証明しなければいけない」中町は、経験からそれを自覚し、この組織に適応していったのだろう。「自分が中心でずっとできるわけじゃないからね…」いつだったか、ブラジル人選手を中心とするベルマーレ時代の事を尋ねた際に返ってきた言葉が、ふと思い出された。経験を通じて得たこの能力は、苦心し、必要とされてきたからこそ得たものなのだろう。サッカー界の自然淘汰は厳しいが、中町は、スペシャリストにもジェネラリストにもなれるプレーヤーである。

 「どこにいっても戦える」インタビューの最後に、中町らしい自信に満ちた言葉が聞けた。ユニバーシアードを経験し、また一つ厳しい環境を乗り越えてきた彼からは、より厳しい環境を求め、そこでの試練を楽しみ、自らの「Flexibility」に磨きをかけることへのロマンを感じることができた。決して自分を捨てるわけではなく、組織にアジャストし、そこで最大限の自分を表現する。彼にとってもソッカー部にとっても、この経験が財産になる。なぜなら彼が最も輝ける環境をソッカー部は用意している。そして彼も「ソッカー部に全てを」捧げるから。


※本コラムは不定期更新です。このコラムの感想をこちらまでお寄せください。

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