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慶應義塾大ソッカー部主将戦記

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第一の手記

恥の多い生涯を送ってきました。
(以下にこの恥多き17年間のサッカー生涯回想録を記します。)

私は静岡の街で育ちました。幼少の私は活発でやんちゃな“クソがき”だったようで、生来の負けず嫌いも加わり、二つ上の姉とはよくケンカをしたものです。母は、そんな私をどうにか「疲れさせよう」と近所のサッカー教室へ連れて行きました。

これが、私とサッカーの運命的な出会いです。周りの幼稚園児も皆サッカーをするのが当たり前の静岡にあって、またJリーグ発足も相俟って、サッカーにどっぷりと浸かっていきました。園内にある聖母マリア像をキーパーに見立てて幼稚園の先生から怒られたり、家の庭でボールを蹴って窓ガラスを割ったり、サッカーに明け暮れていました。
サッカーが大好きで大好きで仕方がなかった幼少時代でした。

ドーハの悲劇のあった1993年の翌年、小学校に入学。同時にサッカークラブに入団しました。これがあの三浦カズ・ヤス選手等を輩出した「城内FC」でした。本当に運命的な一期一会に恵まれたのですが。同学年にカズ・ヤスの従兄弟がいて、親友でありライバルである素敵な関係に自然となっていきました。
ライバル当人がこんなつもりがあるかどうかわかりません。でも私がサッカーを上手くなりたいと思ったのも、少なくとも今日の私が大学サッカー界で多くの経験をさせてもらっているのも、更に言えば、今後の進路を選択したのも、他ならぬ“一人のライバル”がいてくれたからです。ライバルの大きさが大きければ大きいほど、自分自身が成長し、またそれがライバルをまた強くし、切磋琢磨し合いました。

中学に入ると、一つの決断が迫られます。城内FCのジュニアユースチームに進むか、それとも別のクラブに進むかという選択です。迷いました。通い慣れた環境で、ライバル以上に大親友の彼と、目を瞑ってもパスが繋がる感覚でプレーできるのは、最高の幸せでした。ただ、自分自身サッカー選手として、そして一人の人間として、新たな激流に身を置くことで前に進めると決心し、創部2年目の新設クラブ『キューズFC』に入団しました。

クラブの監督は今でも私の大いなる師です。今も座右の銘としている「Be Gentle~常に紳士たれ~」の精神を学び、挨拶・礼儀、個人の自由意志に任せ、何が善で何が悪なのか13歳の私達に考えさせてくれました。孫正義の伝記を渡されたり、為替レートの展望を聞いてきたり、当時は変わった監督だなぁと思いましたが、後に「点」と「点」は繋がり、その時に必要なエッセンスを学ばせ、身につけさせてくれていたと回想します。決してエリートではない雑草集団でしたが、3年間を通じて本当に成長し、結束力を武器に全国大会でも躍進していきました。
ライバルの彼とは、何度も対戦しましたが、一度も負けませんでした。正直に言えば、サッカーだけでなく、様々な部分で自分の成長を実感し、「自分の方が上」そう過信したまま、私は15歳を迎えました。

3月21日。

ライバルは単身Brazilへ旅立ちました。15歳で、自分の全てが試される場所へ――。

彼は、僕には出来ない決断をしたと思います。

「いつか世界の高いところで、日本代表として会おう」

卒業文集に残してもらった彼の言葉は、私の中では、ずっしり重く、目標へ向けてそこまでも死ぬ気でやらなければ成し遂げられないんだ、彼には勝てないんだと現実を強く突きつけられたことが思い出されます。

※本コラムは不定期更新です。このコラムの感想をこちらまでお寄せください。

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