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慶應義塾大ソッカー部主将戦記

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第三の手記

私は、その男(自分)の写真を三葉、見た事があります。一葉は、1年生の開幕戦から試合に出させていただいている写真、第二葉の写真は、入部当初からの悲願である二部優勝を果した時のもの、最後は早慶戦MVP受賞の雄叫び。…順風満帆の大学サッカー生活を送らせていただきました。

ただ実は、何度もサッカーを続けることを迷ったことがありました。
辛かったです。4時半起床、1時間強の満員電車、雑務、数時間に及ぶミーティング、酔っ払いに絡まれながら帰宅すれば深夜0時を回っているときも…。遅刻をしてしまった時は、練習前後に1時間の清掃がおまけで付いてきました。唯一の至福であるサッカーも、「コーナーフラッグ目がけてゲインしろ…。」、ボールが空中を舞って触れないような戦術。「ラグビーかよ!こんなサッカーなら、やりたくない!何で試合が戦争で、選手が兵士なんだよ!!」。不文律の体育会組織の厳しさ、時間的拘束、監督への不満。諸々重なって、潰走していたように思います。何より、サッカー選手として上を目指すことに疑問を持って過ごしていました。蹴者失格です。

しかし、そんな自暴自棄な自分を支えてくれたのは部員でした。
負けてばかりで、いいプレーもできなくて、迷惑をかけつづけていた自分にも、批判一つせず励ましてくれ、一方で身を粉にして運営や応援に努めてくれる先輩の姿が常にあり、試合に出られない辛さを噛み締め、黙々と練習を重ねる同期の姿に、気づかされるものがありました。部員100人の気持ちを背負い、チームの代表として最後まで諦めない事、責任を持って直向な努力を重ねること、この『部員全員で得る勝利の喜び』という何にも変え難い幸せに出会う事ができたのです。

この素晴らしさを知れた事で、3年目にして1部昇格を決め、主将の大役を仰せ付かる事にもなりました。主将としては、自身の経験から「謙虚に直向にサッカーに精進すること」を部員に求め、一方、厳格な規則や練習に対する強いストレスが鬱積した分、後輩と一緒に雑用をしてみたり、旅行に連れていったり、B・Cチームの練習にでて、潜在的な悩みや心の声を引き出す等“対話”に尽くしました。相手を尊重し、理解した上でチームのビジョンを伝える事で、強い信頼を得る事ができ、部員が主体的にチーム目標に取り組むようになって、充実したラストイヤーを過ごすに至りました。仰いで天に恥じず、附して地に恥じず、素晴らしい大学サッカー生活でした。

現在22歳。この頃ライバルはBrazilの名門XV-De-JauからSantos-FCへ渡りプロサッカー選手への道を模索していました。「いつか日本代表で」15歳の頃に交わした約束から7年が経っていました。
私は、サッカー選手として上を目指すことに区切りをつけ、別の道に歩み始めました。蹴者としては失格です。それでも大学サッカーには、以後数年間のサッカー生活をも凝縮できるほど情熱を持って取り組む事が出来たと納得しています。

同時に一つ決断をしました。それは三菱商事株式会社、いわゆる総合商社への入社です。
世界のビッグクラブと試合ができたこと、主将として組織を俯瞰してチームマネジメントできたこと。サッカーというスポーツを通じて、『国を超えた組織で“中心的役割”を担い、大きな目標を達成する感動を共有する』そんな夢を抱きました。
これ迄サッカーに従事してきた身、社会にでて何ができるものでもありません。ただ李監督と文化の障壁や価値観の違いを越えて信頼関係を構築し、関東大学2部リーグ優勝(1部昇格)を達成し、抱き合って感涙した時のように、ビジネスに於いても「国益に繋がるビッグプロジェクトを請負い、国籍や人種を超えた仲間と達成感・感動を分かち合う」ことができたら、本当に素晴らしいことだと思います。

満員のスタジアムで君が代を聞いている勇姿に少しでも近づけるように。
どれだけ自分に酔った夢だとしても、いつか日本代表として。日の丸を背負って戦いたいと素直に思いました。

改めてライバルの貴方へ。


「いつか世界の高いところで、日本代表として会おう」

(終)

※本コラムは不定期更新です。このコラムの感想をこちらまでお寄せください。

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