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東欧のサムライ熱戦記 by 瀬戸貴幸

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ブラジル時代
by 瀬戸貴幸

みなさんこんにちは瀬戸貴幸です。今回もブラジルでの留学の話をしたいと思います。

ブラジルでの年末から翌年の1~2月は休みでサッカーをやらないチームがほとんどです。アヴァイは12月にはもう練習がなかったために代理人にチームを探してもらうことにしました。いったんパラナ州の代理人の家に戻り、そこで生活しながら自主トレの日々。年が明けて代理人がチームを見つけ、サンパウロ州のコリンチャンスというチームに行くことになりました。このチームには兄も練習参加していたので、施設の良さやご飯のおいしさなどは聞いていました。ちょうどその時期にジュニオールのチームはタッサ・サンパウロといってU-20のカップ戦を戦っていたため、U-17のジュヴェニールというカテゴリの選手たちと混じって練習することになりました。そこには5~6人の韓国人も留学で来ていて仲良くなりました。その年のタッサ・サンパウロはこのコリンチャンスのジュニオールチームが優勝。その年でもうすでにトップチームでプレーする選手が何人も居ましたね。現在、僕が知っている中でロニーがスポルティング・リスボン(ポルトガル)に(現在はレイリア所属)、ボボがベジクタシュ(トルコ)に、そしてジョーがCSKAモスクワ(ロシア)に移籍しました(マンチェスター・シティ、エバートンを経て現在はガラタサライ所属)。
トップチームの練習にも2回ほど参加する機会があり、そのときはトップチームの選手や、ジュニオール年代から上がっていた選手たちと紅白戦なんかを行いました。当時のトップチームにはアルゼンチン代表のカルロス・テベス(マンチェスター・シティ)なんかもいて、ふくらはぎがめちゃくちゃ太かったのを覚えています(笑)。

約2ヵ月間コリンチャンスで練習し、その後またアヴァイに戻りました。アヴァイではビザの関係で試合には出られなかったので、何ヵ月か練習した後、パラナ州のロンドリーナという街にあるポルトゲーザ・ロンドリネンセというチームに行くことになりました。このチームには日本人が3人と日系人が2人いました。日本語で会話することができたので生活は前よりも楽でしたが、環境でいえばコリンチャンスが最高ならここは最低(笑)。グラウンドはあまりよくなく、練習着は自分で洗濯していましたし、ご飯もくそまずかったです。ある日、夜ご飯を食べていたら、日系人の子が「たかさん、ゆっくり食べたほうがいいですよ!」と言ってきて、僕がなんで?』と聞き返すと、「石入ってます」と言われたんです。そんときはびっくりでした(笑)。そんな食事ばかりだったので毎晩スーパーでフランスパンとハムを買ってサンドイッチにして食べていましたね。週末は日本人のおばちゃんの家に泊まりに行って、日本食をご馳走になっていました。このおばちゃんはブラジルに住んでいて、僕の兄がブラジルに留学しているときからお世話になっていたひと。ロンドリーナでプレーしていた日本人選手のほとんどがこのおばちゃんのご飯を食べていました。
肝心のサッカーのほうはというと、ジュニオール年代で登録ができ、パラナ州のカンピオナート(リーグ戦)に出られることになりました。3~4試合に出ましたが、1点も決められず、ひとつも満足できるプレーもなく、ピッチに立つ緊張感にやられて終わりましたね(笑) 。そのときはまだまだ経験が必要なんだと感じました。

その後ビザの関係で日本に帰ることになり、約1年半のブラジル留学を終え帰ることになりました。 


※本コラムは水曜頃更新予定です。コラムの感想やルーマニアでプレーする瀬戸選手への質問はこちらまでお寄せください。

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