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「ジーコ備忘録」mobile

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 W杯ドイツ大会 初戦のオーストラリア戦で悪夢といえる敗戦を喫したジーコ・ジャパン。「もう1点、取っていれば」「3失点目があまりに痛い」合宿地に戻るバスの中、様々な思いがジーコの脳裏をよぎる。体の中で悔しさと憤りがまじり合う。もちろん選手たちも自分と同じように、深いダメージを受けているはずだ。しかし……。


 バスの中が静まりかえっているわけではなかった。信じられないことに、数人の選手が携帯ゲームに夢中になり、ときおり笑い声、叫声があがった。それはいつものことだった。試合に勝とうが負けようがいつも同じだった。大騒ぎをするわけではないが、ゲームに打ち込み、声をあげた。惨敗を喫したばかりだというのに。国民の期待を裏切ったばかりだというのに。
 おかしくないだろうか。彼らの行為は常識から逸脱していないだろうか。敗戦後、何をしようと人それぞれだから、仕方のないことなのだろうか。時代は大きく変わり、若者の気質は変化しているのだから、このくらいは許容しなければならないのだろうか。確かに私が現役のころとは違う。昔の常識にすべてを当てはめて考えてはいけないのは分かっている。
 しかし、それでもやはりおかしくないだろうか。何しろ、我々はワールドカップの大事な初戦で惨敗を喫したばかりだった。笑い声をあげるときではない。どう考えても常識から外れている。当然、その数人の選手たちは周囲から浮いていた。だが、自分たちが浮いていることにも気づいていない。実に寂しいことだった。
 私がバスの中での携帯ゲームを禁じていなかったのは確かである。日本代表選手に対して、いつ何をしてはいけないというルールを設けたことはなかった。代表監督に就いてからは禁止事項をつくったことはない。
 それは、選手のことを大人として扱ってきたからだ。ピッチ上で選手を大人として扱い、自由を与えたように、私生活のうえでも厳しく管理することはなかった。
 ゲームで騒ぐ選手に対し、そこにいた誰もが「ちょっとおかしくないか」と感じ、憤っていたはずだ。だとしたら、近くにいる選手が注意すべきだろう。「おい、いまはやめとけよ」「ふざけるな」とだれかが言えば済むことだろう。監督が「それは禁止」と決めるまで、周囲が放置しておくほうがおかしい。
 これもまた、日本人が抱えているコミュニケーションの問題だと言わざるをえない。何かを注意すると角が立つ。だから、おかしいと思っても知らぬふりをする。結局、規則で禁じるしかない。社会の中でもそういうことがたくさん見受けられる。これこそが日本社会の根底にある大きな問題だ。
 できれば避けたいことだったが、オーストラリア戦後、私は禁止条項をいくつか設けた。携帯ゲームまでは言及しなかったが、試合の前日と当日はリラックスルームにあるダーツ、テーブルサッカーなどの遊具の使用を禁じた。全体練習の前後にリフティングでのボール回しなどをして遊び戯れることを禁じた。そんなことより補強練習をしてほしかった。試合に向けて打ち込んでほしかった。
 代表選手に何かを禁じるなど悲しいことだったが、集中してワールドカップを戦ってもらうには、そうするしかなかった。

 
 合宿地のボンでの練習を終えた日本代表は、第2戦を戦うニュルンベルクに移動した。クロアチア戦前最後の練習に臨むジーコを待っていたのは、いまだにプレーにおいてイニシアチブが取れない選手たちの姿だった。宮本恒靖が伝えてきた、選手たちの願いを聞いたジーコは「情けない」と感じた。宮本は何を伝えたのか。
 詳細は新刊『ジーコ備忘録』に掲載。


※本連載は『ジーコ備忘録』のダイジェスト版です。詳しい内容は本書をご覧ください。毎週土曜日更新予定

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