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「ジーコ備忘録」mobile

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 外的要因に振り回された03年も終わりが近づいた12月5日、W杯1次予選の組み合わせが決まった。ジーコ・ジャパンは助走期間を終え、いよいよW杯ドイツ大会出場をかけたアジア地区1次予選が始まる。
 しかしそれは、流れが悪かった、全てが上手くいかなかった、停滞感が漂っていた・・・ジーコがのちにこう振り返る、最も苦しい1年の始まりでもあった。


 ドイツ・ワールドカップ出場を懸けた一次予選は2月18日、埼玉スタジアムでのオマーン戦からスタートする。しかし、主力となる欧州組は試合直前まで合流できない。せっかくテストマッチとして組んである2月7日のマレーシア戦(カシマスタジアム)、2月12日のイラク戦(東京・国立競技場)は国内組を中心にこなさざるをえない。主軸を欠くのだから、本当の意味でのテストはできなかった。
 私は2つのチームを抱えていた。GK楢﨑正剛、DF宮本恒靖、坪井慶介、三都主アレサンドロ、山田暢久という守備陣はJリーグでプレーする国内組。攻撃を取り持つMF、FW陣は海のかなたを主戦場とする欧州組。この融合の時間が限られて、試合に向けて息を合わせることがなかなかできなかった。2つのチームの融合がなかなか進まなかった。
 2月12日のイラク戦前にはFW柳沢敦がイタリアのサンプドリアから、MF中村がレッジーナから合流。柳沢は先発で、中村は途中から試運転させることができた。しかし、依然として中田英、稲本潤一、高原は帰国できていなかった。柳沢と三都主のゴールで2‐0で勝つことはできたが、試合内容はきわめて悪かった。  
 イングランドから戻った稲本が2月16日の練習に合流した。紅白戦では小笠原とボランチのコンビを組ませている。2トップは柳沢と久保、2列目には中村と藤田を入れて調整させた。同日、中田英がイタリアから、高原がドイツから、鈴木隆行がベルギーからようやく帰国したが、チームの全体練習に入ったのは2月17日になった。もうオマーン戦の前日だった。選手に負担を掛けられないため、フォーメーション練習はわずか15分しか実施できなかった。MFは遠藤、稲本、中村、中田英、2トップは高原、柳沢で構成した。それまで先発組で調整してきた久保や藤田、小笠原らは控え組に回した。
 一部の選手の合流が試合直前になり、調整の時間が限られることになった。それでも結局私は高い能力、豊富な国際経験を評価して、5人の欧州組をオマーン戦で先発させることにした。彼らはワールドカップになったら、欠かせない存在となる。だから、欧州組にはなるべく多くの試合で一緒にプレーさせたかったのだ。

 '04年2月18日、ドイツ・ワールドカップ出場を懸けた長い戦いがスタートした。予選は翌年の秋まで続く。日本は一次予選のグループ3にオマーン、シンガポール、インドとともに振り分けられている。ホーム・アンド・アウエーでリーグ戦を戦い、1位だけが最終予選に進める。最大のライバル、オマーンとの2試合の結果を大事にしなければならなかった。とにかくオマーン戦がすべてだった。
 日本は4‐4‐2のシステムで、GK楢﨑、DFに三都主、宮本、坪井、山田暢、ボランチは遠藤、稲本、2列目に中村、中田英、FWは高原、柳沢。欧州組が多数、顔をそろえるのは03年11月19日、大分総合競技場で行われたカメルーン戦(0‐0)以来のことだった。
 しかし、ことはうまく運ばなかった。
 欧州組のできは良くなかった。運動量が少なく、ミスも多い。ハーフタイムに柳沢をあきらめ久保を投入した。64分には遠藤を外し、中田英をボランチに下げ、2列目には小笠原を投入した。さらに82分には高原を鈴木に代える措置を取った。
 チャンスはつくるが、無得点のまま、じりじりと時間が過ぎた。だが、私は最後まで選手を信じていた。サッカーとは90分で決着をつけるスポーツである。途中経過で慌ててはいけない。最後までしつこく、しかも冷静に戦わなくてはならない。
 選手たちは私の教え通り、粘り強く戦った。そして、勝ち点3をものにしてくれた。終了間際、相手のクリアボールに中村が足を出すと、久保の足元へ。久保は冷静にGKの位置を見極め、強くはないが確実なシュートを流し込んだ。あの重要な局面でうまく感情をコントロールした見事なシュートだった。
 これは偶然の勝利ではない。最後の1秒まで選手たちが勝利にこだわったからこそ、奪えた白星だった。あきらめずに、慌てずに試合を進めた選手たちのタフなハートを讃えてあげたかった。ただ、欧州組のできの悪さは気になった。

 勝利を収めたもののオマーン戦の苦戦で、60人ほどの日本サポーターがジーコの監督解任を求めデモを起こすなど、代表チームの周辺は揺れた。だが、自分が日本のために全力を傾けていると自負し、選手たちとは絶対の信頼関係が築けていると思っていたジーコに、動揺はなかった。
 しかし、オマーン戦に向けての調整合宿中に一部の選手がルール違反を犯したことを知り、ジーコは激しく憤る。8人の代表選手が無断で外出し、居酒屋で、はしたないことをしていた「無断外出事件」が発覚したのである。そしてジーコは久保竜彦、大久保嘉人、小笠原満男、奥大介、山田卓也、山田暢久、茂庭照幸、都築龍太に対し、シンガポール戦に招集しないという厳罰を下した。
 戦力が落ちるとわかっていながら、ジーコは選手たちをどうしても許すことができなかった。それはなにも、選手がはしたないことをしたから、ではない。ジーコが8人を許せなかった理由はほかにある。日本サッカー協会の反対も押し切ってまで、ジーコが彼らを「断罪」した理由とは?
 詳細は新刊『ジーコ備忘録』に掲載。

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※本連載は『ジーコ備忘録』のダイジェスト版です。詳しい内容は本書をご覧ください。毎週土曜日更新予定'

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