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【令和を迎えて】ソーシャルフットボール元日本代表・小林の告白「病気をカミングアウトした理由」

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昨年イタリアで行われたワールドカップに出場したときの小林(右)

 令和時代がはじまり、新時代をリードする期待の若手選手を7人紹介する連載の最終回は精神障がい者によるフットサル、ソーシャルフットボール元日本代表の小林耕平だ。

 小林のSNSを開くと、最初にこんな記述が登場する。

「今まで色々検査を受けて今日結果が出ました。

自閉症スペクトラム
LD(学習障害)
境界知能 
うつ病 
PTSD

沢山の病名が付きました(笑)それでも変わらず小林は小林らしく生きていこうと思います」(原文ママ)

 3月6日、診断名がわかった後にアップしたが、そこには自身が患っている精神疾患の病名がズラリと並んでいた。昨年、名門・バルセロナからヴィッセル神戸に移籍したアンドレス・イニエスタがロシアワールドカップ前の5月と来日した後の11月にうつにかかっていたことを公表し、ニュースにもなった。どんな頑強な人間でも患う可能性があり、大体100人に1人はかかっているといわれている。しかし、日本では決していいイメージでとらえられるこはない。そんな状況をわかっていながらなぜ、小林はあえて公表したのだろうか。

「(精神疾患に悩む人が)普通にいるんだ、ということを知ってほしかった。身近なところから変えられるかなと思ったんです。『そう見えんな』、でも、『ああ、いるんや』と。社会には精神疾患に悩む人だけでなく、耳が聞こえない人もいますし、義足使っている人もいます。でもそれって、人間であることには変わらない。それをちょっとでも伝えたいと思ったんです」

 小林はまだ26歳。病にかかった直後からこの境地にいたったわけではない。小林は小学校の頃からサッカーをしていたが、中学になると人間関係に悩んだ。仲間と衝突し、練習前に嘔吐することもあったという。次第に引きこもりになり、中学は何とか卒業したものの、高校では途中で退学してしまった。そこで「自分を変えよう」と思ったとき、ソーシャルフットボールの存在を知り、飛びついた。その後、通信制の高校から普通の4年制の大学に行ったが、卒業できずにまた退学。今は通信制の大学に通っている。

 救いを求めて駆けこんできた小林を受け入れたソーシャルフットボールのクラブ、YARIMASSE大阪の代表で、監督をつとめる真庭大典氏は20年間、病院の現場で精神障がい者と向き合ってきた現役の看護師だ。

「当時の小林はちょっと肩に力が入りすぎていて、年下なのに年上の人に生意気な態度を見せたりしていました。結局、弱いところを見せたくなかったんでしょう。自分で外に対して『壁』を作ってしまっていました。でも最近は人の話を聞くようになったし、人の輪に入るようになってきた。フットサルを通して、自分の社会的な位置が見えるようになってきていると思います」

前列右から2人目が小林耕平

 転機は2つあった。ひとつは2016年、かねてから夢見た海外でのプレーを実現させるために、小林自ら現地の人にコンタクトをとり、スペインに1か月滞在したことだ。

「不安はなかったですね。あの1か月が今の自分を形成するのに役立っています。両国の豊かさの違いを感じました。日本人は仕事に忙殺されていますが、スペイン人はたわいない話もしながらご飯を食べることを楽しむんです。ある日は、お昼を食べに行って正午にはじまり、終わったのが夕方5時という日もありました。こういう生き方もあるんだ、とわかって肩の力が抜けました」

 さらに昨年3月、ソーシャルフットボールの全国大会前に愛媛で合宿があり、YARIMASSE大阪の仲間と共に初めて寝食をともにし、お互いの理解が深まり、弱さをさらけ出すことへのこわさが減っていった。

 この間、日本代表にも選ばれた小林は昨年5月、イタリアで行われたソーシャルフットボールのワールドカップで4試合に出場した。その4か月後、再びスペインに渡った。1年間、ゴレイロ(GK)としてプレーするつもりで、FD.TALAVERA F.Sと契約も結んだ。しかしスペインでの生活がはじまって約2か月後、体調が悪くなり、帰国を余儀なくされた。

「日本人とシェアハウスで生活したんですが、彼らの方がスペイン語できたり、通っていたスペイン語学校の中でも、僕が一番できなくていろいろ比べてしまって……。ある日、授業の日に過呼吸で倒れて救急車で運ばれてしまったんです」(小林)

 真庭氏は小林の「挫折」をこうとらえている。

「今回の帰国は、ライフスタイルの変化によるストレスによる再発ともとらえられます。でも僕らからしたら、(スペインに)行ったこと自体がすごいこと。我々だって行きたくてもなかなか行けない。そこを自分から行動して、道を切り開いていたことはすごいことです。帰ってきた時はさすがに悔しがっていたし、ちょっと恥ずかしさもあったと思いますけど、以前は弱いところを見せまいと自分のことを話したがらなかった小林が、素直にもといたチームに戻ってきた。仲間にも『コイツもしんどいんだな』という一端を見せた。仲間もうれしかったと思います。今まで20年病院に勤めてきましたが、小林みたいな人はいないタイプです。ソーシャルフットボールという競技においても、治療の現場においても、彼みたいなタイプがいないと発展していかないんだろうなと思います」

 失敗はできるならしたくない。それは健常者も障がい者も同じだ。その失敗が積み重なったとき、「人と付き合いたくないからひきこもる」という行動をとる傾向にあるのが、精神障がいのある人たちだ。でも真庭氏の指摘通り、小林のように失敗をおそれることなくやりたいことにトライする人が増えれば、「小林を見てごらん」と言うだけで、説得力が出てくる。失敗やミスを深く後悔するのではなく、「そういうこともあるよな」ぐらいのとらえ方をできるような「場」を作ることに、真庭氏は心を砕いてきた。


 小林は今、YARIMASSE大阪とは別に、デフフットサル日本代表の船越弘幸らが在籍する関西2部のジプシーフットサルクラブで健常者とともにプレーしている。入部にはセレクションがあり、練習も厳しいことで知られる。なぜ2つのクラブを掛け持ちしているのだろうか。小林が明かす。

「これも挑戦のひとつです。僕に限らず、ソーシャルフットボールの選手の中には能力的には健常者の世界の中でやれる人はいます。でも、自分たちのことを、『サッカーを通して障がいのことを理解してほしい』と言いながら、自分たちが障がいの『壁』を一番作ってしまっている。『自分たちなんか』という言葉を使って……。それは『失敗したくない』という強い気持ちがある気がしています。僕がこうやって変われてきたのは、真庭さんや数人いるほかの方から、失敗する場をあたえてもらって、許して下さる方に恵まれた。だから今度は僕がほかの人に失敗する場を与えるとまでいかなくても、せめてそのきっかけだけは作りたい気持ちです。チャレンジ出来る場、というか『失敗』を受け止められる空間ですかね。そんな場が増えていけば、健常者、障がい者というくくりではなく、同じ人間として一緒に生きる空間になっていくんじゃないかなと思います」

 小林は今年、就職活動にも挑む。彼のチャレンジ精神には、障がい者サッカー選手にとどまらず、障がいのある人たちのよりよい未来を作りたい、という使命感に満ちている。

(取材・文 林健太郎)

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