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ピクシーが語る名古屋グランパス移籍の舞台裏と指揮官としての優勝「アジア文化が好き。幸せだった」

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 “ピクシー”こと元ユーゴスラビア代表のドラガン・ストイコビッチ氏が17日、イタリアのサッカー情報サイト『TuttoMercatoWeb』のインタビューに応じ、名古屋グランパス移籍の舞台裏などを明かした。

 かつてユーゴスラビア代表として、1984年ロサンゼルス五輪で銅メダルを獲得したストイコビッチ氏。セルビアの強豪ツルベナ・ズベズダを経て、マルセイユやベローナでプレーしたのち、1994年夏に名古屋に移籍。翌年のJリーグ最優秀選手賞など数々のタイトルを受賞してクラブの歴史に名を刻み、2001年に引退を迎えた。2008年に指揮官としてチームに復帰した親日家のピクシーは、2010年にJ1制覇も果たしている。

 昨年、中国の広州富力(現・広州城)での5年間にわたる指揮を終え、現在はバカンスを楽しんでいるストイコビッチ氏。インタビューでは、1994年の日本移籍の舞台裏などを振り返った。

「私はあの時マルセイユにいたが、チームは八百長行為により降格が決まっていた。そこへ名古屋からオファーが舞い込んだ。私が唯一、クラブについて知っていたことは、ゲーリー・リネカーがプレーしているということだけだったんだ」

「しかし、当時は数多くの王者たちが日本でプレーしていた。(サルバトーレ)スキラッチやドゥンガ、(ピエール)リトバルスキーなどね。『それだったら良いんじゃないか』と思い、この経験に挑戦してみることを決めたんだ。その結果、私は7年間チームに残り、20世紀で最も重要な選手になった」

「それからユーゴスラビアサッカー協会会長を4年間務め、ツルベナ・ズベズダで2年間を過ごした後、名古屋に戻った。そこから6年間、チームの監督を務めた。2010年にはクラブ史上初となるリーグ優勝を果たし、途方もない偉業を達成したんだ。誰も信じていなかったが、上手く成功することができたよ」

 続いてストイコビッチは、長年にわたってアジアで過ごす中でヨーロッパへのノスタルジーを問われると、自身の考えを明かした。「私は一度仕事を始めると、プロジェクトを最後まで全うすることを幸せに感じるんだ。それにアジアの文化が好きだからね。私は幸せだったので環境を変える理由もなかった」と述べた。
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