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天才レフティ・名波浩、涙の引退

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[12.06 J1第34節 磐田0-1大宮 ヤマハ]

 ジュビロ磐田の「天才レフティ」・名波浩が6日、超満員のヤマハスタジアムで惜しまれながらピッチを去った。残留争いのかかった大事なホーム最終戦。過去に3度のリーグ優勝、ステージ優勝6回のタイトルを獲得した名門・磐田だが、今はその面影はなく、今季はJ1残留が目標となった。しかし、この日の大宮アルディージャ戦も0-1で敗北し、来週ベガルタ仙台との入れ替え戦に臨むこととなった。
 試合後、サックスブルーに染まったスタジアムで名波の引退式が行われた。往年の磐田で共に戦った藤田俊哉(名古屋)、福西崇史(東京V)、高原直泰(浦和)をはじめ、親交の深いミスターチルドレンの桜井和寿氏からのメッセージが送られ、中山雅史から花束と背番号「7」のユニフォームを手渡されると、名波の瞳は涙で溢れた。名波は愛着のあった背番号「7」を着て、駆けつけたサポーターに引退の挨拶をした。
 「本日は情けないゲームを披露して申し訳ありません。あと2試合未来に続くゲームが待っています。そのためにあと1週間努力をしたいと思います。右膝は、もう、ボロボロです。こんなに長くサッカーをやれるとも思っていませんでした。多くの選手、スタッフ、サポーター、今日は大宮のファンがいる中で、様々な方々に支えられた14年間でした。今度、指導者として磐田に戻る時には、サックスブルーの常勝軍団にしたいと思います。本日は本当にどうもありがとうございました」。そして、名波は涙をこらえながら、ゆっくりとスタジアムを一周して、サポーターに感謝の気持ちを伝え、そしてピッチを去っていった。

 名波浩、36歳。充実した14年間のプロ生活だった。
名波は、清水商高、順天堂大を経て、95年に磐田入り。1年目からレギュラーを獲得し、その年の8月6日にはコスタリカ戦で日本代表デビュー。デビュー戦にして初ゴールを決める活躍を見せ、その後一気にブレイクする。97年にJリーグを制覇すると、翌98年にはヤマザキナビスコ杯のタイトルを奪取。99年に2度目のJリーグ制覇を成し遂げ、96-98年には3シーズン連続でJリーグ・ベストイレブンに選出された。そして背番号「7」は、「強い磐田」の代名詞となった。また日本代表としても、98年のフランスW杯ではアジア予選から本選までの全試合に出場。ボランチとして日本を初のW杯出場に導き、日本のサッカーファンを歓喜の渦に巻き込んだ。02年には、リーグ史上初となるJリーグ完全優勝(1st、2ndステージ制覇)にも大きく貢献し、03年には天皇杯をも制した。20世紀後半から21世紀初頭にかけての磐田の黄金期のド真ん中に名波は君臨し続けた。
 しかし、磐田での出場機会が減った06年、名波はセレッソ大阪へ、翌年には東京ヴェルディ1969(現・東京ヴェルディ)に移籍。「お前はジュビロ磐田で辞めなくてはダメだ」。内田篤前監督にそう促され、08年名波は現役最後の地に磐田を選んだ。数年ぶりに古巣・磐田に戻ると、自分よりも年上のチームメイトは中山だけになっていた。リーグを見渡しても、自分よりも年上のJリーガーは殆どいなくなった。それでも名波は、愛する磐田で、愛するサッカーを続けた。しかしながら、膝がもう、限界だった。今季のリーグ戦での先発出場は僅か1度、己の理想のプレーとは程遠かった。そして、11月14日。名波は記者会見で今季限りの現役引退を表明。「自分がイメージするパスが、細かく言えばボール1個分、2個分という世界の中でバランスの悪さを自分自身感じていた。それが最大の決め手」。名波は引退の理由をそう説明した。
 この日の大宮戦では出番はなかったが、チームが入れ替え戦に突入した事で名波の現役生活はあと1週間続く。「天国のお袋がね、"あと1週間頑張りな"、そう言っているような気がするんです。だからやり残すことがないように、このチームのためにしっかり後押ししたいと思っています」。帰り際、名波はそう語った。チームも自身も新しい未来のために、あと1週間、名波の挑戦は続く。

(取材・文 山口雄人)

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