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【単独インタビュー】“00ジャパン”で誓い合う26年W杯へ。スイス2部・鈴木冬一の現在地「絶対上に行ける自信は常に持っている」

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MF鈴木冬一(ローザンヌ)

 2017年のU-17ワールドカップに中心選手として出場し、イングランド最強世代との準々決勝でPK戦の大激闘を演じた経験を持つMF鈴木冬一(ローザンヌ)は現在、スイス2部リーグでプレーしている。東京五輪、カタールW杯の選考レースには絡めず、いま見据えるのは2026年の北中米W杯。同じく悔しさを味わった“00ジャパン”の仲間たちとともに、3年半後に下剋上を果たしていく構えだ。ゲキサカでは2月上旬、オンラインインタビューで現在の思いを聞いた。

——湘南ベルマーレからローザンヌに渡ってちょうど2年、これまでのスイス生活をどう捉えていますか。
「ローザンヌに来てからいまで4人目の監督(スイス人のルドビッチ・マグニン氏)ですが、どの監督のもとでもコンスタントに試合に出られていて、一人ひとりサッカーも考え方も違うので、それぞれに適応するのは自分にとって良い経験になったと思います。その中でも自分の課題であったり、トライしたいことは体現できていますし、不安や不満はないです。いまは少しでも上のチームにステップアップするため、もっと大きな舞台に立てるように頑張っている最中です」

——Jリーグではサイドバック(SB)やウイングバック(WB)のイメージでしたが、いまは4-2-3-1のサイドハーフ(SH)ですね。
「ローザンヌに来た時はSBやWBでプレーしていたんですが、3人目の監督(アラン・カサノバ氏)の時に3-5-2の真ん中、ナンバーエイトと言われるポジションをやっていました。いまの監督になってからも初めは3-5-2のWBだったんですけど、途中でシステムが4バックに変わって、いまは主に右SHでプレーしています」

——WBとSHではずいぶん役割は違いますよね。
「小さい頃から高校時代まではずっとSH、4-3-3のウイングをやっていたので戸惑いはないです。ただ結果が全ての評価につながるポジションになので、まずは結果にこだわること、それにプラスしてチームのために走る献身性、ハードワークのところを意識してプレーしています」

——そうした意味では(取材前の1月29日に行われた)スタッド・ローザンヌ戦の2ゴール、その前のFCアーラウ戦のアシストなど、結果がついてきているところは大きいですね。
「ここ最近はコンディションも良いですし、調子も維持できていて、結果も徐々についてきているのでそこは続けていきたいです。ただもっと個人突破のところやゲームメイクのところは鍛えていきたいですね。いまはスイス2部という世界的に見てもレベルの高くないリーグにいるので、いずれ自分が上に行ったときにギャップを感じないようにしないといけないし、そういうところを常に意識してやっています」

——昨季の降格によって2部でプレーすることになり、ここまで1部で1年半、2部で半年間を過ごしてきました。近年はグラスホッパーの川辺駿選手、瀬古歩夢選手の存在でも徐々に日本でも認知されていますが、スイスリーグはどのような特徴があると捉えていますか。
「個人レベルを鍛えられる場所だなと思います。世界の5大リーグで通用するようなチームは数少ないですが、スイスから5大リーグに行って活躍している選手もいるので、あの選手が行けてやれるなら自分もやれるなという自信はあります。実際に自分が一緒にやっていた選手がリーグアンに行って、ヨーロッパリーグに出ていたりもするので、チャンスもあるなと。ただ移籍すること自体が難しい部分もあるので、いまは“行ってから順応する”という気持ちではなく、“いつ行ってもいいように”と日頃から意識しています。あと1部と2部でチームレベルの差は特に感じないです。何が違うかと言えばやはり個人能力で、個で運べたり、個で決められる選手が1部には多いので、そこで自分自身との差を感じているかというとそうでもないし、自分次第でいつでもステップアップできる環境にいるのかなとは思っています」

——1部10チーム、2部10チームと小規模なリーグ編成ですもんね。
「その点、来季からは1部が12チームに増えるので、今季は2チームが昇格して、2位が入れ替え戦に出られます。さらにチャンスがありますし、チームが良い順位にいたらより自分も見られることも増えると思うので、そこは意識しているところです」

——スイスリーグは日本でも試合を見ることは難しいなかで、なかなか見てもらえないことへの葛藤を感じることはありますか。
「そういう環境を求めて来ているわけではないので難しいですけど、スイスは特に日本から見られないし、『あの選手どこ行ったんやろ』って思われても仕方ないなと思っています。もっと多くの人に見られるためには自分がレベルアップをしないといけないのは承知の上なので、見られなくて悔しいというわけではなく、そこは覚悟の上で来ています」

——ここからは別の角度でこの2年間の話を聞かせてください。まず海外移籍のきっかけとして東京五輪の存在が一つあったと思うのですが、五輪で同世代が戦う姿をどのように見ていましたか。
「まず移籍の考えで言えば、昔から海外でこうやって活躍する夢はもちろんありましたけど、当時はタイミング的にオリンピックもあったので、もちろんそこは意識していました。自分はオリンピックに選ばれませんでしたが、年齢が近い選手がプレーしていたので、悔しさというより羨ましさや憧れが大きかったです。ただ自分が選ばれなかったことに対する反骨心は常に持ち続けられていますし、選ばれなかったからどうとかじゃなく、そこは自分自身の問題なので、それもエネルギーに変えられるような見方をしていて、終わったあとは次のW杯に出られるように頑張ろうという気持ちでした」

——五輪落選は何かのターニングポイントになりましたか。取り組みを変えたことなど。
「自分のやるべき道はそれより前から分かっていましたし、他の方の助言や自分の試合を受けての改善はできるタイプではあるので、オリンピックを踏まえた上で何かを変えようというのはなかったです。オリンピックに選ばれなかったのはあくまでも通過点だし、そのなかでいろんな人に支えてもらって、トレーニングを重ねていって、今後W杯でプレーしたいなということを一番に思っています」

——ではW杯のことについて聞かせてください。五輪が終わったあと、瀬古選手をはじめ、谷晃生選手(G大阪)、菅原由勢選手(AZ)ら“00ジャパン”(2000年以降に生まれた選手で構成された17年のU-17W杯メンバーの愛称)がA代表に食い込むようになりました。そのあたりの変化をどう見ていましたか。
「自分も一度くらい選ばれるチャンスが欲しいなとは思っていましたし、もしも選んでもらえた時に何か結果などのインパクトを残せるという自信はありました。今でもそれはありますし、何らかのハプニングが起きて追加招集で選ばれる形でもいいし、なんとか選ばれないかなと。ただ同い年の選手たちが選ばれて、憧れというか自分も行きたいなと思っていた中でも、移籍をするのが難しいのと同じで、代表に入るのもすごく難しいことだとは思っています。常に代表に選ばれるために日々チームでも頑張っていましたけど、毎回選ばれないというなかで、選ばれた選手たちよりもここから良いサッカー人生にしようという気持ちを持ってできていましたし、メンタル面に関しては良い形で捉えられていました」

——A代表に入っていた選手は昔から仲の良かった選手ばかりだと思いますが、連絡を取ったりしていましたか。
「ありますね。行く前は『頑張ってきて』みたいな感じで言いますし、帰ってきてから『どうやった?』みたいな話もします。ただ“00”の選手がちょくちょく選ばれてはいましたけど、あまり出場機会はもらえていなかったので、試合についてどうかということまでは話せていないんです。彼らも試合に出たらインパクトを残す自信を持っている選手たちなので、終わってから話した時は『出られるように頑張ろう』ってお互い励まし合ってやってきた感じですね」

——それくらい密に連絡を取っているんですね。
「ほぼ毎日連絡取ってますね(笑)。こっちに来たら余計に連絡する人が少なくなって、時差的にもヨーロッパの選手となるとその仲良い選手たちとになるので、頻繁に連絡は取りますし、オフがあれば会ったりします」

——“00ジャパン”の選手でW杯メンバーに入ったのは久保建英選手だけで、彼らの多くは悔しい思いをしたことと思います。その彼らの姿をどのような思いで見ていましたか。
「代表に行ったことがまだないので選考のことは分かりませんが、彼らは選ばれないと分かった瞬間からその次のW杯に向けたプランを立てていましたし、一緒に話し合っていました。悔しいと思っている人がそれをどれだけエネルギーに変えて今後できるかが大事だと思うので、そういう話はしましたね。あとW杯の試合についても話しました。やっぱりW杯は特別な大会で、サッカー選手であればみんなそこに対する野望を持っていると思います。なので、ここからは他の選手たちよりも強い気持ちで実行に移していかないといけないなと思います」

——鈴木選手にとってはイングランド代表のMFフィル・フォーデン(マンチェスター・C)ら、U-17で対戦した選手もピッチに立っていました。W杯にはそうした刺激もありましたか。
「W杯は日本代表の選手も含めて本当にレベルが高いし、世界で一番注目されるにふさわしい大会だと思いました。またU-17、U-20のW杯で対戦した選手が今回のW杯に出ているのを見て、焦りじゃないですけど、あそこで一緒にやっていたのに自分はいま全く行けていない。それを自分に言い聞かせて、その悔しさを力に変えていきたいと思っています」

——次は“00ジャパン”みんなで行こうという意識はありますか。
「2026年で自分たちにとってすごく良い年齢なのかなと思いますし、自分たちの世代がメインで出られるようにしていかないとダメだと思っています。そのためには海外であったり、Jリーグでやっている人たちであったりが、互いに刺激することもすごく大事になると思うので、わざわざ『刺激し合おう』とは言わないですけど(笑)、各選手そういう気持ちを持っているのを感じます。いまも誰かが点を決めたりアシストしたりした時はお互いに連絡をし合っていて、それは嬉しい気持ちと、刺激になっているという気持ちがあります」

——それくらいつながりが深いと、お互いに言葉にしなくても「代表で一緒にピッチに立つ」という共通の目的は自然と出てきそうですね。
「『お互いに代表行こうな』ということは結構いつも言っていますね。そこは本当に目指すべき場所なので。最終的にW杯という目標がありますが、4年に一度しかない大会なので、そこに最終的に入って試合に出て活躍できたらいいですし、それまではどれだけ自分を高めて、いいチームでいい結果を残せるかどうかが大事。各自が4年間、どれだけ準備して、どれだけ結果を出しているかが選ばれるかどうかを決めると思うので、そういうところは常日頃から彼らと話しますし、一番刺激になります」

——チャンスを掴むためには所属チームでの結果も含め、さまざまな形で存在感を示す必要があると思いますが、今後どのように取り組んでいこうと考えていますか。
「まずはコツコツというか、小さいことの積み重ねだと思っています。代表はいつ怪我人が出るかも分かりませんし、追加招集のチャンスを引き寄せるのも大事だと思います。サッカー選手である以上、常に準備をしなければいけないし、もし試合に出られなくてもいつかチャンスは巡ってくるので、回ってきたチャンスを活かすためにも常日頃からやらないといけません。なので常にどのタイミングで移籍のチャンスが来ても、代表に呼ばれるチャンスが来てもいいように、準備しておくことが大事なのかなと思います」

——プレー面ではどのような点にフォーカスしていますか。
「W杯はどの国にもストロングのある選手がいて、ここだけは負けないという選手たちが集まっていたと思うので、絶対に負けない何かを作るのもすごく大事だなと思いました。そういうところを今後もっともっと意識していかないといけないと思います。自分の場合で言えば、いまのポジションは小さい頃からやっていたので、このポジションで勝負してみたいという気持ちがあります。ボールを触れば触るほど自分のプレーのテンションも上がってくるタイプなので、そこは意識していますし、ペナルティーエリア付近でどれだけ多くボールを触れるか、ペナルティエリアにドリブルやパスでどれだけ侵入していけるかを意識しています。特に相手陣内のゴールから30m付近で、1対1なら絶対に仕掛けるという回数を多くして、チャンスを生み出して、アシストでもいいし、ゴールにつながるプレーをもっともっと増やして、極めていきたいなと思います」

——W杯を見ていると、守備で強みを出せるアタッカーの重要性も感じました。鈴木選手がこれまで積み重ねてきた1対1のデュエルで負けない、剥がされない、行かせないという強みも発揮できるのではないでしょうか。
「それは大きく感じていますね。いままでいろんなポジションをやってきましたけど、どのポジションをやっていても、やっぱり無駄なことはなかったなというのを実感しています。与えられたポジションでどれだけ役割を全うできるかということと、自分にしかできないプレーをしようという二つのことを意識してずっとやってきたので、今後は守備でも攻撃でもちょっとずつ、もっともっとできることを大きくしていきたいなと思っています」

——そうしたオールラウンドな選手像についてはどう思いますか。
「理想を言えば、一つのポジションで極めたい思いもあります。アタッカーだったらアタッカー、サイドバックならサイドバックで極めてやっている選手をすごいなと思ったり、憧れも正直あります。ただ自分はいろんなことを経験してきていて、それを全て良い方向に変えていくというのも自分の良さだと思っているので、僕としてはこれまでの経験を活かすことが自分のスタイルに合っているのかなと思います」

——最後にもう一つお聞きしたいことがあるのですが、1年前に亡くなられた小嶺忠敏先生のことです。鈴木選手は高校3年時にC大阪U-18から移籍し、長崎総合科学大附高で1年間を共にしましたが、いまどのような思いがありますか。
「まずとてもショックな出来事でした。自分のサッカー人生を左右する局面で出会った監督でしたし、自分自身すごい思い入れがある1年間で、1年間ですけど1年間に感じないぐらいの思い出があります。あの報告を聞いたときはすでにスイスに帰ってきていたので、特にお花を送るということしかできなかったんですが、もっとチャンピオンズリーグやW杯に出て活躍する姿を見せたかったなという思いがあります。ただ小嶺先生との日々は思い出としても、経験としても消えないと思うので、もっともっと上の舞台に行って、恩返しになるような姿を見せられたらなと思います」

——あの1年間を過ごした経験はいまどのように活きていますか。
「まずはあそこに行くにあたってはすごい覚悟を持っていたので、17歳という年齢であの長崎の地に行くっていう決断をした自分という面で、いまの決断力に活きています。何かこういうことがあったからというよりも、日々の積み重ねで感じるものや得るものが小嶺先生のもとでありました。今後もそういった大きい決断をする時や、何か自分を変えないといけない時にはあの経験が活きてくるのかなと思います。また小嶺先生と一緒にやっていた人なら絶対にみんなが言うと思うんですが、サッカーよりも人間性の部分、日本人が社会で生きていくために必要なことを教えてくれました。こっちに来てからはその教えとギャップのあることももちろんありましたが、僕が今後の人生を送っていくにあたっての人間性はあの1年間で学ばせてもらったと思います」

——最後に今後の目標をお願いします。
「大きい目標としてはW杯で自分が活躍する夢を持っていますけど、近い未来にあるものに集中していきたいです。いまは2部というカテゴリーですけど、まずはチームを1部に上げたいですし、そこから1部でプレーするのか、違う環境に行けるのかは全くわからないですが、今までの人生の中でも反骨心でやってきた部分があるので、自分は絶対上に行けるという自信は常に持っています。自分が変われるチャンス、変えられるきっかけをひたすら待って、それに対して準備していきたいです」

——何かを変えるチャンスという点では、“00ジャパン”同期の上月選手の姿が思い浮かびます。J2京都で契約満了となった後、ドイツ下部リーグからトップチームのレギュラーになっていますが、サッカー界は一つのチャンスでいろんなものが変わるんだなということを示していますよね。
「最近試合も見ていますし、彼もU-17のW杯とかアンダー代表で、僕と一緒に結構苦労していたんです。アンダー世代の中で結構話すことあったし、『もっと頑張らなな』みたいに言っていた思い出もあるので、そういう部分では嬉しい気持ちと、自分も『何かきっかけを』という気持ちになります。ソウイチを見ていてもチャンスをモノにする力がすごく大事だなと思いますし、いまシャルケで吉田(麻也)選手とCBを組んでいるイェンス選手はローザンヌで一緒にやっていたので、そういう部分でも5大リーグはすごく身近な環境にあるなって思います。すごく刺激になりますし、自分にもあるチャンスだなと思うので、そうしたチャンスを掴んで行って、また掴んでいって上に行くというのをやっていきたいと思います」

(インタビュー・文 竹内達也)

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