苦悩を乗り越えた“黄金の左足”がフランス到着! U-23日本代表合流の山田楓喜「待つつもりはない。チャンスを掴みに行く」
苦しみ抜いた末に休む決断をしたとき、MF山田楓喜(東京V)は「頭からオリンピックを一回消した」。だが、バックアップメンバーとして現地帯同が決定。U23アジアカップ優勝を決めるゴールを挙げた“黄金の左足”がフランスの地を踏んだ。
パリ五輪に臨むU-23日本代表は当初、本大会メンバー18人と現地非帯同のバックアップメンバー4人を発表し、山田はバックアップメンバーに入っていた。しかし、その後バックアップメンバーに関するルールが変更。本大会メンバー18人にアクシデントがあった場合、本大会中もバックアップメンバー4人と入れ替わることができ、さらにアクシデントで入れ替わった選手も回復した場合は改めて復帰が可能となった。入れ替えには都度チームドクターの診断書が必要だが、その理由は精神・身体的な疲労でも認められ、低いハードルで変更ができるようになった。
入れ替えがより容易になったことで、本大会メンバー18人にバックアップメンバー4人を加えた22人で戦う意味合いが大きくなり、日本サッカー協会(JFA)は18日にバックアップメンバーの現地帯同を発表。山田はいち早く日本を発ち、19日にはチームに合流して20日から練習を始めた。
バックアップメンバーに入った段階で、チームに合流する可能性をある程度見積もっていた。「前回の大会でもバックアップメンバーの合流があったので」。17日のU-23フランス代表戦前には現地帯同の連絡を受けており、「やっぱりそうか」と思ったという。
そこに至るまでには大きな苦悩があった。5月、山田の左足シュートが決勝点となり、U23アジア杯で優勝を果たした。だが、帰国した山田は2週間程度の休養を余儀なくされる。「あんまり思い出したくはないけど……」と表情を曇らせながらも、勇気を出して当時を振り返った。
「帰ってきてからちょっと体がおかしくて。試合に入ってから思うように体も動かないし、息もすぐ上がる状態。起きてからもベッドから起き上がれなかった。アジア杯で優勝して、活躍して帰ってきた。張り詰めた状況からのあれだったので……頭の変な糸が切れたのかなと」
ドクターと相談しながら休養を考えた。「おかしいなと自分で思ったとき、目先のオリンピックか、これから30歳、35歳くらいまでプロフェッショナルでやっていくかを考えたら、無理せず一回勇気ある決断をして、ここで休もうと決断をできた」。その決定は、間近に控えた五輪出場の可能性を下げてしまうかもしれない。しかしその覚悟を固め、「休むと決断したときに頭からオリンピックを一回消した」という。
「その判断がすごくリフレッシュになった。これからどうやってプロフェッショナルとして生きていくかというのを学べた。すごくいい判断をしたと思う」
2週間程度の休養からクラブの活動に復帰。少しずつ調子を上げると、パリ五輪のバックアップメンバー入りを果たす。そして紆余曲折を経て、パリ五輪が行われるフランスに降り立った。
ひさびさのチーム合流で、仲間たちのさりげない優しさに触れた。「(大岩剛監督もスタッフも)いつも通り接してくれた。選手のみんなも変に気を遣いすぎず、いままで通りに接してくれている。それで逆にすんなり入れたと思う」。感謝の気持ちをにじませた。
再び、日の丸を着けて戦うことに意欲を燃やす。「こういう大会になるとひとつのセットプレーや止まっているボールが重要になる。そこで違いは出せると思う」。幾度もチームを救った左足の出番は近い。「(チャンスを)待っているつもりはない。自分でそのチャンスを掴みに行くだけ。待つというよりは、もう最初から出るつもりでいる」とやる気をみなぎらせていた。
(取材・文 石川祐介)
●パリオリンピック(パリ五輪)特集(サッカー)
パリ五輪に臨むU-23日本代表は当初、本大会メンバー18人と現地非帯同のバックアップメンバー4人を発表し、山田はバックアップメンバーに入っていた。しかし、その後バックアップメンバーに関するルールが変更。本大会メンバー18人にアクシデントがあった場合、本大会中もバックアップメンバー4人と入れ替わることができ、さらにアクシデントで入れ替わった選手も回復した場合は改めて復帰が可能となった。入れ替えには都度チームドクターの診断書が必要だが、その理由は精神・身体的な疲労でも認められ、低いハードルで変更ができるようになった。
入れ替えがより容易になったことで、本大会メンバー18人にバックアップメンバー4人を加えた22人で戦う意味合いが大きくなり、日本サッカー協会(JFA)は18日にバックアップメンバーの現地帯同を発表。山田はいち早く日本を発ち、19日にはチームに合流して20日から練習を始めた。
バックアップメンバーに入った段階で、チームに合流する可能性をある程度見積もっていた。「前回の大会でもバックアップメンバーの合流があったので」。17日のU-23フランス代表戦前には現地帯同の連絡を受けており、「やっぱりそうか」と思ったという。
そこに至るまでには大きな苦悩があった。5月、山田の左足シュートが決勝点となり、U23アジア杯で優勝を果たした。だが、帰国した山田は2週間程度の休養を余儀なくされる。「あんまり思い出したくはないけど……」と表情を曇らせながらも、勇気を出して当時を振り返った。
「帰ってきてからちょっと体がおかしくて。試合に入ってから思うように体も動かないし、息もすぐ上がる状態。起きてからもベッドから起き上がれなかった。アジア杯で優勝して、活躍して帰ってきた。張り詰めた状況からのあれだったので……頭の変な糸が切れたのかなと」
ドクターと相談しながら休養を考えた。「おかしいなと自分で思ったとき、目先のオリンピックか、これから30歳、35歳くらいまでプロフェッショナルでやっていくかを考えたら、無理せず一回勇気ある決断をして、ここで休もうと決断をできた」。その決定は、間近に控えた五輪出場の可能性を下げてしまうかもしれない。しかしその覚悟を固め、「休むと決断したときに頭からオリンピックを一回消した」という。
「その判断がすごくリフレッシュになった。これからどうやってプロフェッショナルとして生きていくかというのを学べた。すごくいい判断をしたと思う」
2週間程度の休養からクラブの活動に復帰。少しずつ調子を上げると、パリ五輪のバックアップメンバー入りを果たす。そして紆余曲折を経て、パリ五輪が行われるフランスに降り立った。
ひさびさのチーム合流で、仲間たちのさりげない優しさに触れた。「(大岩剛監督もスタッフも)いつも通り接してくれた。選手のみんなも変に気を遣いすぎず、いままで通りに接してくれている。それで逆にすんなり入れたと思う」。感謝の気持ちをにじませた。
再び、日の丸を着けて戦うことに意欲を燃やす。「こういう大会になるとひとつのセットプレーや止まっているボールが重要になる。そこで違いは出せると思う」。幾度もチームを救った左足の出番は近い。「(チャンスを)待っているつもりはない。自分でそのチャンスを掴みに行くだけ。待つというよりは、もう最初から出るつもりでいる」とやる気をみなぎらせていた。
(取材・文 石川祐介)
●パリオリンピック(パリ五輪)特集(サッカー)