【単独インタビュー】大卒1年目で日本代表に…町田DF望月ヘンリー海輝が向き合った“挑戦と成長”の1年「すべてが想像以上でした」
単独インタビューに応じたDF
FC町田ゼルビアのDF望月ヘンリー海輝は昨季、大卒1年目にしてJ1開幕節でプロデビューを果たすと、そこからJ1リーグ戦26試合に出場。J1初挑戦クラブの3位躍進に中心選手として大きく貢献した。また個人でも昨年9月、北中米W杯最終予選に臨む日本代表に初選出。A代表デビューには至らなかったものの、世界トップレベルの舞台でプレーする選手たちと9月・10月の2度にわたって共に活動し、未来への大きな収穫を手にした。
サイドバックが主戦場の選手としては異質な192cmの長身、そして時速35kmを上回る爆発的なスピードは、代表レベルでも際立つ世界基準の武器。そんな今季さらなる活躍が期待される23歳に『ゲキサカ』は昨年末、単独インタビューを行い、飛躍の1年を振り返ってもらった。


——この1年を振り返ると、どのような1年でしたか。
「一言でまとめると“挑戦と成長の1年”でしたかね。ゼルビアもJ1初挑戦で、僕も1年目でもちろんJ1初挑戦で。開幕戦(・G大阪戦)は途中出場で結果を残せず、そこからあまり試合に出られなくなり、(第9節・)FC東京戦では初スタメンでアシストして、ちょくちょく試合に出られるようになりつつも、あまり結果は残せず。代表にも呼んでもらって、(他の選手が)“したくてもできない”ような経験をさせてもらって、そこからも失敗はあったけど、成長したくない人でも成長するような経験をさせてもらったので、挑戦と成長の1年だったかなと思います」
——想像以上、という感じでしょうか。J1リーグ戦で26試合出場というのも1年目としては際立った数字です。
「いわゆるA契約がありますよね。サッカー選手としての価値を高めるためにそこまでは辿り着きたいなと思って、まずは(A契約締結基準となる)J1で5試合・450分間出るというのを目標にしていたんですが、それも気付いたら達成していて、本当にすべてが想像以上でした。よく『自分が想像している以上にはなれない』と言われますけど、今年は想像以上にしかなっていないといいますか、なかなか頭が追いつかず、ガムシャラにやっていったという感じです」
——開幕節・G大阪とのデビュー戦もGスタで取材していたんですが、アップの時からすごく緊張している様子が伝わってきました。試合後には黒田剛監督から「もっと精神的な部分で表現できるようになってほしい」と伝えられていましたが、そこから精神的な面での成長をどう捉えていますか。
「まず当時はあまりそういうふうに思っていなかったんですけど、今から見たら緊張してましたね。顔とかもすごいこわばっていて(笑)。そこからの成長で言うと、本当にいろんなことを経験させてもらって、黒田監督や明輝さん(金明輝コーチ/現福岡監督)などいろんな方に指導をしてもらいましたし、手本になる(昌子)源くんのような素晴らしい選手も周りにいて、成長するしかないだろうという場があったのが大きかったですね。ありがたいことに。その中で僕もいろんなことを考えながらやって、それで慣れていった感じです」
——その中で強くなったなと。
「なんて言うんですかね。強靭になったというよりは、前はガラスのようだったのが、いまはゴムみたいな感じといいますか、何か言われてもすぐに元に戻るような、そういうふうに成長できたかなと思います。またメンタルがダメだった理由としては技術的な面でもあまり自信がなかったからで、そこから自分の足りないものを監督・コーチから指導されて、真摯に取り組んでいるうちに、それくらいやってきたんだという部分、そして実際に上手くなってきたなという部分も出てきて、技術的な面からメンタルも相乗効果で成長することができたのかなと感じています」
——FC東京戦での初先発・初アシストを経て、もう一段階ステップを駆け上がっていったように見ていたのですが、そういった手応えを得られた「転機」はありましたか。
「正直、ここでパッと明確に成長したという感覚はないんですが、積み重ねの部分ですかね。ただ代表の活動をしていく中で、あそこは本当に日本のトップの選手ばかりが集まっているので、そこの技術や意識を見て、吸収していって、止める蹴るとかベースの部分を成長させてもらったことで、選手としてレベルを上げていくことができたのかなと思います」
——9月に初めて日本代表に選ばれた時は驚きとともに「選ばれたからにはやらないといけない」という覚悟を口にしていました。実際に合流してからの感覚はどのようなものでしたか。
「驚きは最初だけでしたね。『入ったんだ』というのでまず驚いて、でもずっと驚き続けるわけにもいかないので、覚悟もしていかないといけないなと。外から見ていても、ある意味“挑戦枠”という感じだったと思いますが、呼ばれたからには『挑戦枠だから』という気持ちで行くのは違うし、挑戦させてもらったぶん成長を見せられるようにという気持ちでやっていました。またそれにプラスして、呼んでくれた方の想像を超えるようなプレーができたらと思っていましたね」
——選ばれた時の驚きに加えて、練習でも驚きはありましたか。
「鳥かごは驚きでした。僕からしたら結構狭い幅でやっていたんですが、普通にパスをパンパンつないでいて、誰も変なミスをしないんですよ。もちろんディフェンス側がうまく追い込んで取るというのはあるんですけど、浮いているボールもスッとパスを転がしたり、基本的なレベルの高さ、そこに伴う判断は驚かされました」
——その中でも「ヘンリー」の愛称もすぐに定着し、温かく迎えられているように見えました。プレー以外の環境で何か感じることはありましたか。
「まずシチュエーションで言えば、ワールドカップがかかった試合ということでもっと殺伐としているかと思っていたんですが、練習中はもちろんピリッとしていますけど、ご飯の時はみんなすごい和気藹々と喋って過ごしてましたし、トップの選手だからこそのオンとオフの切り替えはすごく感じましたね」
——10月シリーズにも選ばれましたが、その輪の中にどれぐらい入っていけましたか。
「そこは全然入って行けてないですね(苦笑)。もちろんご飯を食べる時はみんなで食べるんで話すんですけど、ご飯の時とか練習以外はもういろんなところで張り巡らせていた緊張感を消化するというのもあって、ずっと部屋でリラックスしていました。ある意味リカバリーの時間みたいな、そういうふうに過ごしていました」


——トレーニングでは話すこともあると思いますが、コミュニケーション面も含め、練習に向けてどのようなことを考えていましたか。
「正直、他の人との関わり方まで考える余裕がなくて、何日後に試合だからこの準備をしようとか、ミーティングであれを伝えられたからこの練習で意識してやろうとか、あの選手はこういうやり方をしているから自分もやってみようとか、ずっとそういうことを考えていましたね。人との関わり方も考えるべきだと思うんですけど、なかなかそこまで余裕がなくて、本当に“サッカー”の部分しか考えられていなかったです」
——ミニゲームではサブ組に入っていたと思います。やるべきことはたくさんありますもんね。
「そうですね。相手がどういう形でやってくるからスタメン組はこうやろうというのを(スタメンで出る)みんなと一緒に聞いているので、その中で相手がやってくるように(サブ組は)こうしようというのはインプットしますし、それをアウトプットすることによって間違いなく自分の成長につながっていたなと思います。そういったサブ組での練習のやり方は自分の成長につながりましたね。あと長友(佑都)さんとよくサブ組で一緒にやっていましたが、彼が一番チームを盛り上げていて、チームの雰囲気をよくしているんですよね。意識してやっているのか、無意識でそうなのかは分からないくらいなんですけど(笑)。もちろんゼルビアでもサブ組として練習していた時もあったので、意識はしていたんですけど、あれほどチームのために盛り上げることができるんだというところでは、サッカーの部分だけでなく学びがありました」
——10月のオーストラリア戦は初めてベンチにも入り、最も代表デビューに近づいた試合になりました。おそらくリードしていたらピッチに立つチャンスもあったのではないかと思うのですが、どのようなイメージで準備していましたか。
「リードしていたらというのは僕も考えていましたね。オーストラリアの立場から考えると、日本より身長も高いので、負けていたらパワープレーで行こうとなっている可能性が高いですし、そうなれば身長的に僕が出るというのが現実的にあると思うので、そこはもちろん考えていました」
——そうした想定で言えば、思い出されるのはロシアW杯のベルギー戦です。W杯のような世界的な舞台でも、局面次第では持ち味が活かせるイメージがあると思います。今後、代表で生き残っていくため、より食い込んでいくためにどのようなビジョンを持っていますか。
「いまはサイドのポジションをやっているので、僕が呼ばれた理由は高さとスピードを見てもらったと思いますし、そこを抜きにしてはまず考えられないなと思います。高さにスピード、運動量を活かして、それこそ酒井宏樹選手のように守備のところで海外の相手を抑えられるような選手になることができれば、もっとこれから生き残っていけるのかなと思いますね」
——世界の相手を抑えるというのは良いテーマ設定ですね。日本代表での活動では世界トップの基準を感じたと思いますが、そこで新たに考えたこと、取り組んでいることはありますか。
「代表に行ってからYoutubeとかDAZNで海外の試合の動画はよく見るようになりましたね。シンプルに代表で一緒にやっていた久保(建英)選手とかを見て、『めちゃくちゃ上手かったあの選手が世界の高いレベルの中でどうやっているんだろう』というのが気になったのもありますし、ある意味それが大きな基準になると思うので、技術どうこう、身体能力どうこうだけでなく、あの水準に行けばこれくらいのレベルに行けるんだというのを意識するようになりました」


——たしかに実際に間近で活動していた久保建英選手が、どうラ・リーガで相手を抜いているか、どうラ・リーガの相手に抑えられているかはすごく貴重な基準になりますね。
「そうですね。守備のほうでは(板倉)滉くんがどういうプレーをしているかは見ています」
——板倉滉選手からはどんな刺激を受けていましたか。
「滉くんはディフェンダーの中で想像以上に上手かったんですよね。あの大きさにプラスしてあの賢さ、あの技術。それを持っていてこそ、あのレベルに行けるんだなと感じました。スピードと高さもそれを極めればまた違った世界があるのかもしれませんが、それにプラスして技術、賢さを身につけることでドイツのリーグでプレーできるんだなと思います」
——ちなみにスピードと高さという武器はサッカーを始めた頃からずっと持っていたものなんでしょうか。
「足は速かったですね。身長は大きくなかったですが」
——身長はいつ頃から伸びたんでしょう。
「中学2年くらいですね。中1では162cmくらいで、まあ大きいけどめちゃくちゃ大きいわけじゃないって感じでしたけど、中2から半年くらいで12cmくらい伸びて、オスグッド(膝の痛み)でサッカーができない時期もありました。そこから高3くらいまではずっと7〜8cmずつ伸びていました」
——ちなみに明確にプロを目指し始めたのはいつ頃だったんでしょう。
「大学1年生くらいですね。もちろん高校(三菱養和SCユース)の時も子どもなりにはプロサッカー選手になりたいという夢のようなものがありましたけど、明確になりたい、ならなきゃいけないって思ったのは大学(国士舘大)1年生の時です。その時もトップのチームに居させてもらっていた中、大学3〜4年生の選手たちが就職活動をしているのを見て、プロになる厳しさを目の前で見ていたので、自分も3年後には働くか、サッカーをしていくかだなと考えた時に、サッカーでご飯を食べて行きたいなと思い、そこから明確に意識していました」
——そこから4年で日本代表というのは本当に想像以上ですね。反対にそうした立場に立ったいま、今後はどのような目標を持っていますか。
「正直、“今後”という長い目標は考えてないんですが、まず2024シーズンはサイドで26試合に出ている中で2アシストしかできなかったので、2025シーズンはアシストを増やすことを意識していきたいです。またセットプレーでもっと点を取れるようにというのもありますし、大きく言えばゴールとアシストで10点ぐらい残したいなっていうのはありますね」
——2026年のW杯はどれくらい意識していますか。
「そこを見据える気持ちはありますが、まずはJでの活動、自分がいるチームでの活動でしか評価されないと思うので、そこで結果を残すことが必然的にさらに大きい舞台にもつながってくるかなと思うので、僕としてはまず、いま話したような結果を達成したいなと思います。そこでもしW杯で呼んでいただければ、その時はチームの勝利のために全力を尽くしたいというイメージですね」


——最後に本日、着用していたスパイクのことについて教えてください。まずこの『MIZUNO α』シリーズの印象は。
「『MIZUNO α』が新しく発売された大学時代から履いているんですが、この軽さが僕のスピード、高さ、運動量を活かすプレーにマッチしているなと思って履き始めました。プロに入ってからは特に、自分の強みをどんどん出していかないといけないですし、強みを活かすことを考えるとこの『MIZUNO α』に助けられていますし、自分に合っていると思います」
——今回から『MIZUNO α II』になってデザインも新しくなりました。いかがでしょう。
「デザインがすごく格好いいですね。あと中の滑りにくさも良くなっていて、足にフィットする感覚が少しの時間履いただけでも良くなっていると感じられました」
——このスパイクを履いて戦う新シーズンへの意気込みを。
「新シーズンはまず1年目にできなかった開幕スタメンを果たしたいと思いますし、そこでしっかりと結果を残して、10得点に絡むような活躍をできたらと思います」


(インタビュー・文 竹内達也)
●北中米W杯アジア最終予選特集
サイドバックが主戦場の選手としては異質な192cmの長身、そして時速35kmを上回る爆発的なスピードは、代表レベルでも際立つ世界基準の武器。そんな今季さらなる活躍が期待される23歳に『ゲキサカ』は昨年末、単独インタビューを行い、飛躍の1年を振り返ってもらった。


——この1年を振り返ると、どのような1年でしたか。
「一言でまとめると“挑戦と成長の1年”でしたかね。ゼルビアもJ1初挑戦で、僕も1年目でもちろんJ1初挑戦で。開幕戦(・G大阪戦)は途中出場で結果を残せず、そこからあまり試合に出られなくなり、(第9節・)FC東京戦では初スタメンでアシストして、ちょくちょく試合に出られるようになりつつも、あまり結果は残せず。代表にも呼んでもらって、(他の選手が)“したくてもできない”ような経験をさせてもらって、そこからも失敗はあったけど、成長したくない人でも成長するような経験をさせてもらったので、挑戦と成長の1年だったかなと思います」
——想像以上、という感じでしょうか。J1リーグ戦で26試合出場というのも1年目としては際立った数字です。
「いわゆるA契約がありますよね。サッカー選手としての価値を高めるためにそこまでは辿り着きたいなと思って、まずは(A契約締結基準となる)J1で5試合・450分間出るというのを目標にしていたんですが、それも気付いたら達成していて、本当にすべてが想像以上でした。よく『自分が想像している以上にはなれない』と言われますけど、今年は想像以上にしかなっていないといいますか、なかなか頭が追いつかず、ガムシャラにやっていったという感じです」
——開幕節・G大阪とのデビュー戦もGスタで取材していたんですが、アップの時からすごく緊張している様子が伝わってきました。試合後には黒田剛監督から「もっと精神的な部分で表現できるようになってほしい」と伝えられていましたが、そこから精神的な面での成長をどう捉えていますか。
「まず当時はあまりそういうふうに思っていなかったんですけど、今から見たら緊張してましたね。顔とかもすごいこわばっていて(笑)。そこからの成長で言うと、本当にいろんなことを経験させてもらって、黒田監督や明輝さん(金明輝コーチ/現福岡監督)などいろんな方に指導をしてもらいましたし、手本になる(昌子)源くんのような素晴らしい選手も周りにいて、成長するしかないだろうという場があったのが大きかったですね。ありがたいことに。その中で僕もいろんなことを考えながらやって、それで慣れていった感じです」
——その中で強くなったなと。
「なんて言うんですかね。強靭になったというよりは、前はガラスのようだったのが、いまはゴムみたいな感じといいますか、何か言われてもすぐに元に戻るような、そういうふうに成長できたかなと思います。またメンタルがダメだった理由としては技術的な面でもあまり自信がなかったからで、そこから自分の足りないものを監督・コーチから指導されて、真摯に取り組んでいるうちに、それくらいやってきたんだという部分、そして実際に上手くなってきたなという部分も出てきて、技術的な面からメンタルも相乗効果で成長することができたのかなと感じています」
——FC東京戦での初先発・初アシストを経て、もう一段階ステップを駆け上がっていったように見ていたのですが、そういった手応えを得られた「転機」はありましたか。
「正直、ここでパッと明確に成長したという感覚はないんですが、積み重ねの部分ですかね。ただ代表の活動をしていく中で、あそこは本当に日本のトップの選手ばかりが集まっているので、そこの技術や意識を見て、吸収していって、止める蹴るとかベースの部分を成長させてもらったことで、選手としてレベルを上げていくことができたのかなと思います」
——9月に初めて日本代表に選ばれた時は驚きとともに「選ばれたからにはやらないといけない」という覚悟を口にしていました。実際に合流してからの感覚はどのようなものでしたか。
「驚きは最初だけでしたね。『入ったんだ』というのでまず驚いて、でもずっと驚き続けるわけにもいかないので、覚悟もしていかないといけないなと。外から見ていても、ある意味“挑戦枠”という感じだったと思いますが、呼ばれたからには『挑戦枠だから』という気持ちで行くのは違うし、挑戦させてもらったぶん成長を見せられるようにという気持ちでやっていました。またそれにプラスして、呼んでくれた方の想像を超えるようなプレーができたらと思っていましたね」
——選ばれた時の驚きに加えて、練習でも驚きはありましたか。
「鳥かごは驚きでした。僕からしたら結構狭い幅でやっていたんですが、普通にパスをパンパンつないでいて、誰も変なミスをしないんですよ。もちろんディフェンス側がうまく追い込んで取るというのはあるんですけど、浮いているボールもスッとパスを転がしたり、基本的なレベルの高さ、そこに伴う判断は驚かされました」
——その中でも「ヘンリー」の愛称もすぐに定着し、温かく迎えられているように見えました。プレー以外の環境で何か感じることはありましたか。
「まずシチュエーションで言えば、ワールドカップがかかった試合ということでもっと殺伐としているかと思っていたんですが、練習中はもちろんピリッとしていますけど、ご飯の時はみんなすごい和気藹々と喋って過ごしてましたし、トップの選手だからこそのオンとオフの切り替えはすごく感じましたね」
——10月シリーズにも選ばれましたが、その輪の中にどれぐらい入っていけましたか。
「そこは全然入って行けてないですね(苦笑)。もちろんご飯を食べる時はみんなで食べるんで話すんですけど、ご飯の時とか練習以外はもういろんなところで張り巡らせていた緊張感を消化するというのもあって、ずっと部屋でリラックスしていました。ある意味リカバリーの時間みたいな、そういうふうに過ごしていました」


——トレーニングでは話すこともあると思いますが、コミュニケーション面も含め、練習に向けてどのようなことを考えていましたか。
「正直、他の人との関わり方まで考える余裕がなくて、何日後に試合だからこの準備をしようとか、ミーティングであれを伝えられたからこの練習で意識してやろうとか、あの選手はこういうやり方をしているから自分もやってみようとか、ずっとそういうことを考えていましたね。人との関わり方も考えるべきだと思うんですけど、なかなかそこまで余裕がなくて、本当に“サッカー”の部分しか考えられていなかったです」
——ミニゲームではサブ組に入っていたと思います。やるべきことはたくさんありますもんね。
「そうですね。相手がどういう形でやってくるからスタメン組はこうやろうというのを(スタメンで出る)みんなと一緒に聞いているので、その中で相手がやってくるように(サブ組は)こうしようというのはインプットしますし、それをアウトプットすることによって間違いなく自分の成長につながっていたなと思います。そういったサブ組での練習のやり方は自分の成長につながりましたね。あと長友(佑都)さんとよくサブ組で一緒にやっていましたが、彼が一番チームを盛り上げていて、チームの雰囲気をよくしているんですよね。意識してやっているのか、無意識でそうなのかは分からないくらいなんですけど(笑)。もちろんゼルビアでもサブ組として練習していた時もあったので、意識はしていたんですけど、あれほどチームのために盛り上げることができるんだというところでは、サッカーの部分だけでなく学びがありました」
——10月のオーストラリア戦は初めてベンチにも入り、最も代表デビューに近づいた試合になりました。おそらくリードしていたらピッチに立つチャンスもあったのではないかと思うのですが、どのようなイメージで準備していましたか。
「リードしていたらというのは僕も考えていましたね。オーストラリアの立場から考えると、日本より身長も高いので、負けていたらパワープレーで行こうとなっている可能性が高いですし、そうなれば身長的に僕が出るというのが現実的にあると思うので、そこはもちろん考えていました」
——そうした想定で言えば、思い出されるのはロシアW杯のベルギー戦です。W杯のような世界的な舞台でも、局面次第では持ち味が活かせるイメージがあると思います。今後、代表で生き残っていくため、より食い込んでいくためにどのようなビジョンを持っていますか。
「いまはサイドのポジションをやっているので、僕が呼ばれた理由は高さとスピードを見てもらったと思いますし、そこを抜きにしてはまず考えられないなと思います。高さにスピード、運動量を活かして、それこそ酒井宏樹選手のように守備のところで海外の相手を抑えられるような選手になることができれば、もっとこれから生き残っていけるのかなと思いますね」
——世界の相手を抑えるというのは良いテーマ設定ですね。日本代表での活動では世界トップの基準を感じたと思いますが、そこで新たに考えたこと、取り組んでいることはありますか。
「代表に行ってからYoutubeとかDAZNで海外の試合の動画はよく見るようになりましたね。シンプルに代表で一緒にやっていた久保(建英)選手とかを見て、『めちゃくちゃ上手かったあの選手が世界の高いレベルの中でどうやっているんだろう』というのが気になったのもありますし、ある意味それが大きな基準になると思うので、技術どうこう、身体能力どうこうだけでなく、あの水準に行けばこれくらいのレベルに行けるんだというのを意識するようになりました」


——たしかに実際に間近で活動していた久保建英選手が、どうラ・リーガで相手を抜いているか、どうラ・リーガの相手に抑えられているかはすごく貴重な基準になりますね。
「そうですね。守備のほうでは(板倉)滉くんがどういうプレーをしているかは見ています」
——板倉滉選手からはどんな刺激を受けていましたか。
「滉くんはディフェンダーの中で想像以上に上手かったんですよね。あの大きさにプラスしてあの賢さ、あの技術。それを持っていてこそ、あのレベルに行けるんだなと感じました。スピードと高さもそれを極めればまた違った世界があるのかもしれませんが、それにプラスして技術、賢さを身につけることでドイツのリーグでプレーできるんだなと思います」
——ちなみにスピードと高さという武器はサッカーを始めた頃からずっと持っていたものなんでしょうか。
「足は速かったですね。身長は大きくなかったですが」
——身長はいつ頃から伸びたんでしょう。
「中学2年くらいですね。中1では162cmくらいで、まあ大きいけどめちゃくちゃ大きいわけじゃないって感じでしたけど、中2から半年くらいで12cmくらい伸びて、オスグッド(膝の痛み)でサッカーができない時期もありました。そこから高3くらいまではずっと7〜8cmずつ伸びていました」
——ちなみに明確にプロを目指し始めたのはいつ頃だったんでしょう。
「大学1年生くらいですね。もちろん高校(三菱養和SCユース)の時も子どもなりにはプロサッカー選手になりたいという夢のようなものがありましたけど、明確になりたい、ならなきゃいけないって思ったのは大学(国士舘大)1年生の時です。その時もトップのチームに居させてもらっていた中、大学3〜4年生の選手たちが就職活動をしているのを見て、プロになる厳しさを目の前で見ていたので、自分も3年後には働くか、サッカーをしていくかだなと考えた時に、サッカーでご飯を食べて行きたいなと思い、そこから明確に意識していました」
——そこから4年で日本代表というのは本当に想像以上ですね。反対にそうした立場に立ったいま、今後はどのような目標を持っていますか。
「正直、“今後”という長い目標は考えてないんですが、まず2024シーズンはサイドで26試合に出ている中で2アシストしかできなかったので、2025シーズンはアシストを増やすことを意識していきたいです。またセットプレーでもっと点を取れるようにというのもありますし、大きく言えばゴールとアシストで10点ぐらい残したいなっていうのはありますね」
——2026年のW杯はどれくらい意識していますか。
「そこを見据える気持ちはありますが、まずはJでの活動、自分がいるチームでの活動でしか評価されないと思うので、そこで結果を残すことが必然的にさらに大きい舞台にもつながってくるかなと思うので、僕としてはまず、いま話したような結果を達成したいなと思います。そこでもしW杯で呼んでいただければ、その時はチームの勝利のために全力を尽くしたいというイメージですね」


——最後に本日、着用していたスパイクのことについて教えてください。まずこの『MIZUNO α』シリーズの印象は。
「『MIZUNO α』が新しく発売された大学時代から履いているんですが、この軽さが僕のスピード、高さ、運動量を活かすプレーにマッチしているなと思って履き始めました。プロに入ってからは特に、自分の強みをどんどん出していかないといけないですし、強みを活かすことを考えるとこの『MIZUNO α』に助けられていますし、自分に合っていると思います」
——今回から『MIZUNO α II』になってデザインも新しくなりました。いかがでしょう。
「デザインがすごく格好いいですね。あと中の滑りにくさも良くなっていて、足にフィットする感覚が少しの時間履いただけでも良くなっていると感じられました」
——このスパイクを履いて戦う新シーズンへの意気込みを。
「新シーズンはまず1年目にできなかった開幕スタメンを果たしたいと思いますし、そこでしっかりと結果を残して、10得点に絡むような活躍をできたらと思います」


(インタビュー・文 竹内達也)
●北中米W杯アジア最終予選特集


