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パラリンピック落選のCPサッカー日本代表主将・浦辰大が明かす「無念」と「諦めない理由」

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インタビューに応じた日本代表主将の浦辰大

 脳に障がいを持つ人の7人制サッカー、CPサッカーが25日、ロンドンで行われた国際パラリンピック委員会(IPC)の理事会で、2024年のパリパラリンピックの種目から外れた。2016年のリオデジャネイロ大会までは正式種目で、2020年の東京大会から落選。復帰のために水面下で尽力してきた関係者のショックは大きいが、一報を聞いたCPサッカーの日本代表主将の浦辰大(エスペランサ)は落胆の思いを胸にしまい、前を向いた。

「東京大会に落選した悔しい思いは今でもずっと残っていました。パリ大会での復帰は残念ながらなりませんでしたが、僕の競技人生は続きます。僕はこのCPサッカーを通してたくさんの仲間たちにスポーツは人の心を動かすことができる素晴らしいものだと教えてもらいました。これからは僕自身の泥臭く、一生懸命なプレーを通してCPサッカーの仲間や応援してくださる多くの方々の心を動かすような熱さや感動を届けられるよう、精一杯競技に励みたい」

 生まれるときのアクシデントにより仮死状態で生まれた浦は、脳の血管がつまっていたことが原因で左半身に麻痺が残った。症状は軽かったため、自分の症状についてはあまり公にせず、小学校3年生になると健常者のチームでサッカーをはじめた。

「サッカーは自分を表現できるスポーツだと思うんです。ドリブル、パス、シュート。ボールを持った人にしか選択権はない。だからドリブルが得意で自信があれば、それで勝負すればいい。そんなところにひかれてのめりこみました」

 1歳年下の弟で、のちに高校サッカーの名門・野洲高校で全国高校選手権に出た才能を持つ浦淳也が一緒のチームでサッカーをはじめると、心に影が落とされるようになる。

「小さい頃は障がいを持っていることが目立たなかったんですが、高学年になるにつれてみんなが両足でリフティングできるのに、僕は右足でしかできなくなった。やれることがみんなと開きが出てきて、同じチームにいて、弟が試合に選ばれて僕が選ばれないことも増えました。弟は健常者で僕は障がい者なので今考えると、ある意味、仕方ないことなんですが、1つ年下ということもあって、ライバル視していました。『全部、母さんのせいだ』と母に当たってしまったこともあります」

麻痺が残る左足は右足に比べ、筋肉量で劣り、細い

 誰にとっても中学時代は多感な時期。浦の弟に対するライバル心は、過剰な形で現れた。地元中学のサッカー部に入った浦は、弟の淳也が中学進学の際、別の私立中学に進学するように仕向けたのだ。

「いろんな友人から『弟は上手だね』とか言われるようになって、同じチームでプレーすることがイヤになったんです。だから小6ぐらいからほとんど口を聞かなかった。弟に対する『負け』を認めたくなかったんです」

 屈折した心のままサッカーを続けていると、自分ができないことばかりに目が行き、面白くなくなった。「サッカーを続けていく意味、あるのかな」とまで考えるようになった頃、母・りささんから「あなたと同じような障がいを持った人がサッカーをやっているよ」とCPサッカーの存在をはじめて知り、岐阜で開かれる全日本選手権の観戦をすすめられた。

「最初は全く気乗りしませんでした。僕はそれまで健常者と一緒にサッカーをやっていて、それなりの自負はあったので、障がいを持った他の人のことをいわゆる『下』に見ていたところがありました。『ボール扱いはうまくないんだろう』とか『つまらないサッカーやるんだろうな』とか。何より、障がい者のサッカーに僕が関わったら、友達がいなくなるんじゃないかと恐れてもいたんです」

 気が進まないまま、父・一美さんと一緒に岐阜旅行のついでに見たCPサッカーで浦の価値観が大きく変わった。

「正直、『すごい』と思いました。普段、杖が必要な人がピッチに立つと、杖を外して懸命に走るんです。何度転んでも、何度も起き上がる。そしてゴールを決めるとみんなが集まってきてメチャクチャ喜ぶ。『一生懸命にやることって、こんなにカッコいいんだ』って心が熱くなりました。それまでの自分は、一生懸命やることがカッコ悪いと思っていました。それは全力でやると左足と左腕でがうまく動かないことがばれてしまう。障がいを隠すために自分を表現しきれていなかったんです。自分は障がいを抱えていながら、障がいを持っている、他の人への見方が変わったんです」

昨年、韓国代表と戦ったときの浦(右から2人目)

 健常者のサッカーを続けながら、CPサッカーの日本代表合宿に呼ばれると参加を続け、日本代表に定着。2013年、高校2年生で世界選手権(スペイン)に出場し、翌14年にアジアパラリンピックで銀メダルを獲得し、競技者として実績と自信をつみあげた。翌2015年、大きな転機が訪れる。一方的に距離を置き、8年近く口を聞いてこなかった弟・淳也との「雪解け」のきっかけが訪れた。自身2度目の世界選手権出場へむけた出発直前、弟は自身のツイッターでこうつぶやいたのだという。

「永遠のライバル、世界選手権頑張れ!!」

 ツイッターをやっていなかった浦は、母を通じ、弟のメッセージの存在を知った。浦がやや声を震わせながら振り返る。

「何で、何で、何でこんなに優しいんだろう、と。こんなに突き放していたのに応援してくれていたことを知って、自分自身が凄く情けなくなりました。僕はずっと弟から『下』に見られていたんだろうな、と思いがずっとあったし、だから『ライバル』と書いてあったことを知り、『そう見てくれていたのか』と。何ていうか、うれしくて…。8年間、無駄な時間を過ごしたな、と後悔していますし、弟には感謝しかありません」

 そこですぐに『ありがとう』『今までごめんな』と電話で言えないのが、兄貴のプライドであり、照れもあるのだろう。その分、弟が大事な大会前になると「頑張れよ」とLINEを送るようになり、まずはSNSを通して徐々に会話が再開した。面と向かって話すようになったのは、約2年前。つい最近のことだ。

「弟が僕のこと、そしてCPサッカーを応援してくれています。僕も、プロのサッカー選手を目指している弟を応援したい。そのために何ができるだろうと、ずっと考えています。それがなかなか思い浮かばないのがつらいんですが……。僕は弟のライバルとして恥じないよう、今やっているCPサッカーで結果を残したい。そしてパラリンピックに出て、弟を喜ばせたいんです」

 25日のIPCの決断により、CPサッカーのパラリンピック復帰は早くても2028年まで延びた。それでもまだ22歳の浦には出場できる可能性は残っている。左足が思うように動かなくても、バランスを崩して転んでも、ボールを必死に追い、その先にあるパラリンピック出場の夢も追う。まず最初に、一方的に突き放しても応援してくれていた弟の笑顔を見るために……。

(取材・文 林健太郎)

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