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「東京五輪への推薦状」第19回:通なら分かる、“もう一人の凄い奴”。市船DF原輝綺はちょっと上の世界へ

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 2020年東京五輪まであと4年。東京五輪男子サッカー競技への出場資格を持つ1997年生まれ以降の「東京五輪世代」において、代表未招集の注目選手たちをピックアップ

 今季の市立船橋高には“目玉”と言える選手がいる。キャプテンマークと堅守の伝統を象徴する「5番」を預かるDF杉岡大暉だ。新シーズンの開幕に前後して、U-19日本代表候補にも名を連ねる逸材の視察に訪れるJリーグのスカウトは後を絶たなかった。「でもね」と言った朝岡隆蔵監督は、こう続けた。「目のいい人たちはすぐに気付くんだよ。杉岡の隣に、同じくらい良い選手がいることに」。

 その選手の名を、原輝綺と言う。昨年から出場機会を得ている選手だが、そこまで図抜けた存在感があったわけではない。特別なスピードや高さ、あるいは左足のロングフィードやキレのあるドリブルのような武器がなかったからかもしれない。献身的でクレバーなプレーぶりは目を惹いたものの、注目を集めるには至らなかった。ただ、夏を越えて冬に至ってからの進化は、一部の関係者の間で話題にはなっていた。「原、伸びてるな」と。

 思えば市船に来てからの原は、まさに「伸びた」選手だった。東京の名門クラブ・AZ’86青梅ではFWやトップ下など攻撃的な位置の選手として活躍していたのだが、意気揚々と臨んだ市船では「最初は本当に下のほうからのスタート。全然通用しなかった」と苦い表情で振り返る。名門の門戸を叩くのは、一騎当千の選手たちで、中には中学時代に日の丸を付けたことのあるような選手もいる中で、東京から来た選手のプライドは砕かれた。

「1年のときは周りが本当に上手くて……。自分が全然ダメなんだと思わされてばかりだった。一回、(心が)折れました」

 そう率直に振り返るが、しかし折れたままではいない芯の強さがあるのが原輝綺である。

「だって親がお金を払ってくれてここに通わせてもらっていますからね。ここで折れて手を抜いたら、親に失礼だと思った。もちろん、自分の夢もありましたから」

 まずは自分が上手くないことを受け入れた。コーチからポジションを下げることを提案されても「悔しさとかはなかった」と言う。市船で生き残るためにはやるしかない。「与えられた位置でとにかく一所懸命にやってみることだけ考えました。次はここか。今度はこっちかという具合にいろいろやりながら段々ポジションが下がって、最後は3バックのセンターになっていた」。

 本人の葛藤とは裏腹ながら、ポジションを下げながら原の評価は上がっていた。守備のセンスの良さ、戦術理解能力の高さという個性が見えてきたからだ。何より取り組む姿勢の良さが評価されたのだろう。1年生ながらAチームに上がったこともある。もっともこれは、「2週間くらいしかいられなくて、すぐに落とされました」と本人が苦笑いで振り返るエピソードなのだが。

 今季は杉岡と組んで4バックの中央を担うことが多いが、3バックになっても柔軟に対応し、試合中のポジション変更があっても何ら違和感がない。「CBはもちろん、右も左もボランチもできる」(朝岡監督)守備のオールラウンダーとしての評価を確立させた。Jリーグの2クラブから正式な獲得オファーを受けており、後は本人の決断待ちという状況だ。進学は考えなかったのかと聞くと、こんな答えが返ってきた。

「最初は大学も考えたんですけれど、お金も掛かりますから。弟もサッカーをやっていて、地方に行っている。僕は市船まで3年間通わせてもらっただけで本当に十分。プロに行くと決めました」

 Jクラブの練習参加で手ごたえを感じての結論なのかと思ったが、それはあっさり否定された。「(高校サッカーとは)もう基礎のトラップやパスの次元が違っていた。本当に自分はまだまだなんだと痛感させられただけです」と笑う。年代別代表は狙わないのかというこちらの問いかけにも「そりゃ入りたいですよ」と言いつつ、こんな言葉を返してきた。

「自分は“少し上の目標”を常に持ってやってきました。市船でAチームに2度目に上がったときは『絶対に残ってやる』と思ってやっていて、その後は『スタメン獲ってやる』と思ってやってきた。高望みはせず、いまの自分にやれることに全力を注ぐのが自分のやり方。逆に言えば、与えられた場所で全力を尽くしていれば見えてくるのかなとも思う」

 地に足の着いた物言いだが、別に大人しいタイプではない。「あのプロのプレースピードの中でやれるイメージをもって基礎を鍛え直したい」と語る声にはギラギラした熱いものが確かにこもっていて、“ちょっと上の目標”をつかみ取っていきそうな空気感を静かに生み出していた。

執筆者紹介:川端暁彦
 サッカー専門新聞『エル・ゴラッソ』元編集長。2004年の『エル・ゴラッソ』創刊以前から育成年代を中心とした取材活動を行ってきた。現在はフリーランスの編集者兼ライターとして活動し、各種媒体に寄稿。著書『Jの新人』(東邦出版)。
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