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レッズの真相「ビッグクラブ2」

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 今思えば、A3チャンピオンズカップは非常に重要な大会だった。選手にとって。

 リーグ戦の合間に行われたA3は当初、チーム関係者のなかでも「余計な大会」と囁かれるほど、モチベーション維持の難しいコンペティションだった。開催国・中国の山東魯能、上海申花、そして韓国の城南一和と、対戦相手は骨太なチームばかりだ。しかし、A3に優勝したからといって得るものは少しの賞金。アジア・チャンピオンズリーグは予選リーグを突破して一段落したとはいえ、大事なリーグ戦に影響を及ぼすような海外遠征は御免だという風潮が、チーム内には充満していた。

 だが、浦和レッズの指揮官・ホルガー・オジェックは別のことを考えていた。それは非常に効果的でありながら、選手にとっては少々シビアな行いだったのである。
 A3以後、オジェックの選手起用は明らかに変化している。これまで出場機会の限られていた細貝萌や堤俊輔をスタメンに抜擢したのは最たる例である。そして逆に、彼ら若手の台頭によって立場が厳しくなった者もいる。
 酒井友之はA3開催前、指揮官へアピールしようと闘志を燃やしていた。
「A3では普段出場できなかった選手にもチャンスが巡ってくるはず。そこでいいプレーができれば、今後につながる」
 しかし、中国・済南に渡航してから、酒井は体調を崩してしまう。済南は温度、湿度ともに高く、光化学スモッグの影響で空気が淀んでいた。そんな気候にたたられてしまったのか、酒井のパフォーマンスは低調だった。最終戦の上海申花戦で途中交代。チームも惨敗を喫した後、一言も発さずに俯いてバスに乗り込む酒井の姿が印象的だった。
「中国に行く前は調子が良かったんですけど、向こうに行ってから体調が悪くなってしまった。試合中も、本来のプレーができなかったです」

 内舘秀樹も苦難を強いられている。2002年、当時の指揮官であるハンス・オフトに見出され、本来のサイドバックから守備的MF、ストッパーにコンバートされてからの内舘は、チームリーダーとして確固たる地位を築き上げていた。04年にギド・ブッフバルトが監督に就任してからは主にストッパーとして活躍し、出場機会が限られながらも要所でチームを締め、その力が貴重なものであることを内外に示してきた。
 しかし、今季の内舘はかつてないほどの逆風に晒されている。ACLでの出場機会はなし。リーグ戦でも8節・鹿島戦で3分、11節・G大阪戦で1分間プレーしただけだ。
 だからこそ、内舘にとってもA3でのアピールは重要だった。しかし、山東魯能戦で4失点、上海申花戦で3失点と、内舘がストッパーとして出場した試合で守備が崩壊。すべての責任が内舘にあるはずもないが、そのプレー内容を見て指揮官は断を下した。
 ヤマザキナビスコカップ準々決勝第1戦。G大阪との試合で、内舘はスタメン起用されたが、ポジションはストッパーではなくボランチだった。
「ポジションは試合前に言われました。ボランチだったので、ちょっとびっくりした」
 この試合。内舘は中盤の底から何度も効果的なパスを送り、チームをオーガナイズした。運動量も多く、ポジショニングも的確。試合はドローに終わったものの、その働きはマン・オブ・ザ・マッチ級だったのだ。試合後、当然報道陣は彼の声を聞こうと群がる。しかし内舘は、まったく表情を崩さず、むしろ無念そうに前述の言葉を吐いた後、こう言った。
「ボランチはオフトの時以来だから4年ぶりくらいにプレーした。なぜこのポジションだったのかって? うーん……。監督がどういう考えなのか、正直分からない」
 ここからは憶測の域を出ないが、酒井、内舘の選手起用は、今後のチームバランスを明確に表す指揮官の意思であるように思う。すなわち、各ポジションの序列が変わったということ。つまり内舘は、これまで実績を積み上げてきたストッパーとしてではなく、今後はボランチのバックアッパーの列に入ったのである。そして、内舘の役割が変化したことで、酒井の立場も変わる……。
 内舘はその後、親善試合のマンチェスター・U戦でもボランチとして出場し、豪快なミドルシュートで得点を挙げたが、それでも表情は浮かない。
 プロの世界はシビアだ。熾烈なポジション争い、指揮官へのアピール、世代交代の渦。さまざまな嵐のなかで生き残った一握りの者だけが相応の成果を得る。選手は対戦相手と戦う前に、常に身内との激しい闘争に打ち勝たなければならない。

<写真>マンU戦で豪快なシュートを決め、拳に力が入る内舘。ゴールの喜びを噛みしめているのか、自身のチームでの立場に思いを馳せているのか?写真奥で倒れているGKは世界的な名手ファンデルサール

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