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「ジーコ備忘録」mobile

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 '04年7月17日、ワールドカップ一次予選を戦っている最中、アジアのチャンピオンを決める4年に一度の大会、アジアカップが中国で開幕した。またしても多くの欧州組を欠き、同大会に参戦できるのは中村俊輔と川口能活のみだった。
 だが04年4月の東欧遠征、同5月のイングランド遠征をほぼ国内組みで好成績を収め、むしろ日本の状態は上向いていた。
 そしてジーコジャパンは、反日感情が燃え盛り、執拗なブーイングが鳴り続く、重慶のオリンピック・スタジアムでオマーンとの第1戦を迎える。


 オマーンとはドイツ・ワールドカップのアジア地区一次予選でも同組となっている。2月18日に埼玉スタジアムで1‐0で下しているが、10月13日に敵地での再戦を控えていた。ここでオマーンを叩いて、できれば精神的に優位に立っておきたかった。
 オマーンについては2月の対戦で特色をよくつかんでいた。球ぎわが激しく、しつこいマンマークをしてくる。カウンターを主武器とし、ゴール前の仕掛けも多彩だった。足が長く独特のボール扱いをする。
 7月20日、日本は3‐5‐2のシステムをとり、GK川口、DFは中澤佑二、宮本恒靖、田中誠、左アウトサイドに三都主アレサンドロ、右に加地亮、ボランチは遠藤保仁と福西崇史、トップ下に中村で2トップは玉田圭司と鈴木隆行という編成だった。
 気温は35度近く、湿度は60パーセントほどを記録した。我々は、その気象条件を頭に置いたサッカーをするつもりだった。前から相手を追い回してスタミナを消耗するのは怖かった。高い位置でのプレッシングは掛けない。ラインを引き気味にして相手を呼び寄せる。これによって相手が最も得意とする逆襲速攻を未然に防げるはずだった。もちろん日本も攻めはカウンターを軸とすることになる。
 相手にボール保持を許すため、見た目は悪かった。日本は常に劣勢に立たされているように映る。実際、30分までに危ない場面が何度かあった。しかし、選手たちは慌ててはいなかった。あえて攻めさせているのだという気持ちで戦えていた。そして34分、欲しかった先制点をものにする。
 暑い中での戦いで、早いうちに先制できたのは大きかった。無理をして点を取りに行かなくても済む。ただ、リードしてから引きすぎてしまった部分はある。
 後半はオマーンの攻めを受け続けることになる。しかし、最後のところで耐え続け、何とか1‐0の勝利で初戦を飾った。
 DF陣の粘りは見事だった。特に中澤はこの大会を通じて、まったく隙のない強固な守備を見せ続ける。中澤の充実なしに、この大会の日本の進撃はなかった。
 オマーン戦は終始、劣勢に映っただろうが、我々にすれば狙いどおりの試合運びだった。2月の対戦と同じ1‐0というスコアでオマーンを退けたことになる。試合をしっかりコントロールしたという点では、今回のほうが上だった。チャンスを数多くつくったのはオマーンだが、勝ったのは日本だった。試合後、私は「勝ち点3を獲得したことが何よりだ。我々は優勝という大きな目標に向かっている。勝ち進むにはしっかりとしたサッカーをし続けなければならない」と話した。

<写真説明>'04年のアジア杯、堅守でチームに貢献した中澤佑二


 '04年7月24日のタイ戦では、日本へのブーイングは試合前の「君が代」がかき消される程、さらに激しくなっていた。
 むき出しの敵意が向けられる中、試合は行われ、日本はタイに先制を許してしまうものの、4‐1の完勝。これで勝ち点を6に伸ばした日本は最終戦を待たずに、準々決勝進出を果たす。
 続く7月28日のイラン戦では0‐0で引き分け、D組の首位を確保した。
 強烈な反日感情をぶつけられたことで、チームがひとつにまとまった、と当時を振り返るジーコだが、もうひとつ、チームの結束力が高まった要因がある。この大会、ジーコが先発メンバーを固定してきていたがために出場のチャンスに恵まれなかった控え組の“姿勢”がチームを活性化させていたと考えていた。
 その控えの選手たちの“姿勢”とは?

 詳細は新刊『ジーコ備忘録』に掲載。

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※本連載は『ジーコ備忘録』のダイジェスト版です。詳しい内容は本書をご覧ください。毎週土曜日更新予定'

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