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「ジーコ備忘録」mobile

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 '06年ドイツ・ワールドカップ出場を懸けたアジア地区最終予選グループBのイラン戦が2日後に迫った05年3月23日、日本代表の選手同士が守備確認の練習中に口論を始め、口論の輪が徐々に広がっていった。
 口論の発端となったのは、先発組のボランチの福西崇史とトップ下の中田英寿による意見の食い違いだった。できるだけ前でボールを奪いたい中田英と、ある程度、相手を呼び込んで守備をしたい福西。2人の間でラインの高さを巡って意見が対立したのである。
 選手たちには言いたいことをすべてぶつけ合ってほしかったジーコは、「殴り合いになったら行けばいい」というつもりでいた。選手たちにじっくり議論し、意見を交換してほしかったのだ。

 だが全員が納得できるような答えは出ず、最後までまとまらなかった。結局、結論の出ないままイラン戦に臨むことになってしまう――。


 '05年3月25日、テヘランのアザディ・スタジアムは11万人とも言われる大観衆で埋まっていた。客席はまさにすし詰め状態だった。スタジアムの外にも人があふれている。場内に歓声が渦巻き、地鳴りのように響いた。異様な雰囲気のなかでキックオフを迎えようとしていた。
 このイラン戦に向けて、万全の準備ができたというわけではなかった。本格的な戦術練習がこなせたのは3月23日だけだった。そして、そこで激しい衝突が起こったのだ。口論となった問題の答えは出せぬまま、決戦を迎えることになった。
 日本の先発はGK楢﨑正剛、DFは三浦淳宏、中澤、宮本、加地、ボランチは小野、福西、トップ下に中村、中田英、2トップに玉田、高原という顔ぶれだった。出場停止の三都主の代わりに三浦、故障の鈴木に代わって玉田が入った。
 立ち上がりからイランが個の力を前面に出してきた。アリ・カリミ、メフディ・マハダビキアらのドリブルに破壊力があり、ファウルなしでは止めにくい。左SBの三浦が守備に苦しんでいる。アリ・ダエイ、バヒド・ハシェミアンが構える前線には高さがある。1対1の局面での当たりが厳しく、日本は猛烈な圧力を受け続けた。
 イランの力業に窮し、25分、早々と先制を許した。右からのFKのこぼれ球をハシェミアンに押し込まれた。日本は攻めをまともに構築できない。MF陣は中村も中田英も守備に追われ、2トップは孤立した。ほとんど前線にボールが入らず、入ったとしても確保はままならなかった。
 しかし、後半、日本も個の力を押し出し始め、リズムをつかんだ。中田英や小野が強引なドリブルで挑み、チャンスをつくっていく。66分、クロスボールに柳沢敦(途中出場)が競り合ったこぼれ球を、福西がボレーで叩き込み、ついに同点とした。だが、わずか9分後に再び、ハシェミアンに高い打点のヘディングによるゴールを許した。日本は掌中にしかかっていた勝ち点1を取りこぼした。
  
 最終予選の2戦目で黒星を喫し、1勝1敗となり、日本はイラン、バーレーンに次ぐB組3位に落ちた。マスコミは「ドイツ行きに黄信号点灯」というようなとらえ方をしたが、それは間違っている。イランはB組の最難敵であって、しかもこの一戦はアウエーで行われたのだ。星を落とすことは、決して想定外ではなかった。「引き分ければ上々」というくらいのつもりでいた。2位以内に入れば、自動的に出場権は得られるのであって、1位になる必要はない。2位争いをするうえで重要なのはイランではなく、バーレーン、北朝鮮との対戦結果だった。

<写真>イラン戦の2日前の練習で、守備について意見を言い合う中田英(左)と福西(右)

 4-4-2の4バックでイラン戦に臨み、敗れてしまった日本。試合を終え帰国すると、宮本と中田英がジーコのもとへ相談に来た。チームの総意として、3バックで戦いたいということを伝えに来たのである。3バックで戦いたがっていた選手たちの気持ちを察し、2人が相談に来る前から、3-5-2にシステムを戻すと決断していたジーコは「私もそう考えていたところだ」と即答し、2人を拍子抜けさせた。
 そして'05年3月30日、埼玉スタジアムにバーレーンを迎えての一戦で、3-5-2のシステムで勝利を収め、日本はB組の2位に浮上した。だが、相手オウンゴールによる勝ち方は、運によるものだという声が上がる。だがジーコはこの勝利は偶然の産物ではないと考えていた。
 バーレーン戦での日本の勝利の理由とは……
 詳細は新刊『ジーコ備忘録』に掲載。

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※本連載は『ジーコ備忘録』のダイジェスト版です。詳しい内容は本書をご覧ください。毎週土曜日更新予定'

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