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「ジーコ備忘録」mobile

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 '05年6月3日のバーレーン戦、6月8日の北朝鮮戦のアウエーでの連戦を前に日本は、壮行試合としてキリンカップを戦った。5月22日にペルー(新潟スタジアム)と、5月27日にUAE(国立競技場)と対戦したが、ともに0-1で敗れる。W杯最終予選のさなかという大事なときに、2試合連続の無得点での敗戦は、チームのムードを悪くした。

 キリンカップを終えた日本代表はUAEのアブダビへ飛んだ。6月3日のバーレーン戦(マナーマ)に向けた合宿を隣国で張った目的のひとつは暑熱対策だった。
 直前まで国内で合宿を張るのが私の流儀だったが、今回はUAEで3日間、練習を積み大一番に備えた。その効果はあった。バーレーンのほうが湿度が低いため、現地入りした選手たちは涼しく感じたらしい。
 05年6月1日、いよいよ敵地に乗り込んだ。バーレーンとは前年から数えて3度目の対決となる。'04年8月3日のアジアカップでは準決勝で対戦し、延長の末、日本が4‐3で競り勝った。この最終予選では3月30日に1‐0で勝ったばかりだ。この一戦に向け、私はもうひとつ自分の流儀に反することをしていた。私はふだん、相手に合わせてシステムを変えたりはしない。相手チームのことはじっくり分析、研究し対応策は練る。だが、相手がこうくるから、このシステムを採用しようとは考えない。自分たちの力をいかに出すかを考えてシステムを決める。それが私のやり方だった。
 '05年6月3日のバーレーン戦は特別なケースと言っていい。監督に就任して初めて相手に合わせて、システムを変更した。
 私はこの一戦で3‐6‐1の布陣を選択した。バーレーンの3バックはフラットなラインをつくるが、スピードのない選手が1人いた。機動力が落ちる。そのため、守備ラインの連係が悪く、裏に飛び出す動きに弱かった。
 それならば2トップではなく1トップにして、より流動的な攻めをしたほうがいい。動き出しが巧みな柳沢を1トップに据えて、2列目に中村と小笠原を置いた。柳沢が動いてDFをつり出し、スペースをつくり、そのスペースをMF陣が活用する。もちろん逆のパターンも仕掛けていく。それが攻撃の基本コンセプトだった。
 ボランチには福西と中田英。左外には三都主、右外に加地が位置し、中盤は厚く構成してある。3バックは宮本、田中誠と故障の癒えた中澤。GKは川口だった。
 このバーレーン戦では1トップを任せた柳沢が、狙い通りの動きをしてくれたのが大きかった。柳沢というFWは本格派のストライカーではないかもしれない。だが、柳沢と組むとFWもMFも非常にやりやすいという。なぜなら、柳沢は常に周囲の選手を意識しながらタイミングよく動き出している。必ずしも自分の所にパスが来なくても、あの選手がフリーになるはずだということを思い描きながら動いている。
 3‐6‐1へのシステムの変更は的中した。34分の得点シーンは、まさに私が描いていたプランをなぞるような形だった。柳沢は中田英にボールを預けるとゴール前に走った。中田英は縦パスを送ると、中村がダイレクトでヒールを使い中央に残した。そこに小笠原が出てくる。このとき柳沢は左へ動いてDFをつっている。それによって小笠原にシュートコースができた。小笠原は壁パスを送るようなそぶりを見せて相手をかわし、きれいなミドルシュートを打ち込んだ。小笠原の個人技もさえたが、目立たないところで柳沢がきっちりシュートシーンのおぜん立てをしている。
 守備陣はキリンカップの2試合で同じようなカウンターで痛恨の失点を喫したことから、ナーバスになっていた。
 私はキリンカップの連敗について表向きは「あれはあくまで親善試合であって、ワールドカップ予選とは別だ」と話していたが、実はこの時期は精神的に非常にきつかった。チーム内には危機感が充満していた。しかし、それによって集中力が生まれたのだろう。選手たちは神経を研ぎ澄まして、このバーレーン戦に臨んでいた。ワールドカップに必ず行くのだという気迫で相手を上回った。
 結果は1‐0という最少得点差だが、内容的には日本の完勝だった。充実感の残る勝利だった。
 最終予選の全6戦中、4戦を終えて日本は3勝1敗。勝ち点を9に伸ばし、B組の2位をキープした。イランが勝ち点10で依然としてトップ。バーレーンは1勝1分2敗の勝ち点4のままで3位。北朝鮮は勝ち点0と苦しんでいた。
 日本はバーレーンとの直接対決で2連勝したため、2位を争ううえで大きなアドバンテージを得た。勝ち点が並んだ場合、直接対決の成績で順位を決める。つまりバーレーンに勝ち点で並ばれても日本が上になるのだ。この結果、残る2試合で勝ち点をひとつ積み上げれば、B組の2位以内が確定することになった。5日後、バンコクで行われる北朝鮮戦で最低でも引き分ければ、勝ち点が10となり、ワールドカップ出場が決定する。日本は大きく前進した。ドイツはもう目の前だった。

<写真説明>バーレーン戦で1トップを任せられた柳沢


 バーレーンに勝利した日本は6月8日、タイ(スパチャラサイ国立競技場)で北朝鮮との対戦を迎える。この試合は異例の無観客だった。発端は3月30日の北朝鮮-イラン戦(金日成スタジアム)。同対戦で、主審の判定に怒った北朝鮮側のサポーターがピッチに酒瓶や石を投げるなど暴徒化した。これによりFIFAは北朝鮮-日本戦の会場を第三国に移し、しかも無観客で行うという処分を下したのだ。
 無観客という異常な環境のなかで、選手たちが試合に集中できるだろうかと懸念したジーコは、選手を試合に没頭させるため、試合中にとにかく大声で状況を伝え続けた。そして途中出場の大黒将志が2点に絡む活躍を見せ、2‐0の完勝を収める。日本は最終予選の5試合を終え、4勝1敗の勝ち点12。B組の2位以上を確定し、世界最速でのW杯予選突破を果たした。
 1年後に始まるW杯ドイツ大会。世界を相手にさらに厳しい戦いになると考えたジーコはポジションごとに選手を集めて、技術面、フィジカル面でのいくつかの宿題を出した。
 詳細は新刊『ジーコ備忘録』に掲載。

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※本連載は『ジーコ備忘録』のダイジェスト版です。詳しい内容は本書をご覧ください。毎週土曜日更新予定'

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