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レッズの真相「ビッグクラブ2」

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 永井雄一郎の清水エスパルスへの完全移籍が正式に発表された。
 1997年、三菱養和から浦和レッズに加入した永井は、圧倒的な走力と独特のリズムを伴ったドリブルを武器にサポーターを魅了した、チームの象徴とも言える選手だった。
 しかし、これまで永井を指揮した監督たちは、彼の処遇に思い悩んだ。彼の特長を生かせるポジションはどこなのか。本人はゴールを狙うFWでの起用を願ったが、その稀有なプレースタイルの影響で、ストライカーとして認識されづらかった。トップ下、ウイング、サイドアタッカー。様々なポジションで試された末に、永井はスタメンを外れてベンチに待機する機会が多くなっていった。

 永井の苦悩はギド・ブッフバルトが就任した2004年シーズンから顕著になった。あるとき、永井は過去を振り返ってこんなことを語っていた。
「ギド時代の3年間は年を重ねる毎に立場が悪くなっていきましたからね。それって、かなりマズイでしょ(笑)。日々の練習での紅白戦でも、僕は常にレギュラー組の相手となる控え組でプレーして、レギュラーたちが本番でプレーするうえでのスパーリングパートナーを務めていた。これじゃあ、いざ試合で途中から起用されても、他の選手とのコンビネーションが確立されるわけがない。僕は結構、周囲との連係を重視したいタイプなんです。ドリブルが得意なんで、そう思われないことが多いんですけどね。ギドのときはもう僕の居場所がなくなっていた。それなら、このチームを出るしかないかなって」
 常勝を掲げた昨今の浦和は他クラブの日本代表クラスを続々と加入させ、新戦力を主力に据える手法を採るようになった。一方、目まぐるしく代わる戦力の中でチームのベースとなるコンセプトは確立されないまま。必然的にスタイルは選手の個人技を重視する傾向となり、特定選手に依存するサッカーへ移行していった。
 前述の言葉にもあるように、永井は卓越した個人スキルを有しながら、そのサッカー理念は組織を重要視する。そんな彼の思考を理解し、光明を与えたのが2007年に指揮官に就任したホルガー・オジェックだった。
「オジェックにFWのポジションを任されて意識が変化した。僕が無理をして局面を打開しなくてもいいんじゃないかって思えたんです。僕がボールを受けた時点で周りには優秀な仲間たちがいる。彼らに簡単にボールを預けて、僕はもう一歩先、ゴールに近い場所でボールをもらおうとする意識が強くなった。今まではボールを受けたら何かしなくてはいけないと思っていたんです。でもドリブルばかりしていると疲れてしまう。そうすると最後のフィニッシュの場面で力を発揮できない。今は格好良くプレーしようとは思わない。FWとして何をすべきか。それは点を取ることですよね。どんな形でもいいからゴールネットを揺らす努力をする。それだけなんです」
 ストライカーとして覚醒した永井。しかしそれも、2008年シーズンに入り2試合限りでオジェックが解任されたことで落胆へと変わる。
「実際、ここ何年間か、レッズのサッカーが何なのか、はっきりとしたものは僕もないんじゃないかと感じている。だから『自分たちのサッカーができれば』というのは、ひとつの願望でもある。ただクラブ、チームの色っていうのは僕ら選手だけじゃなく、監督、クラブフロントなどが一丸となって作り上げなきゃいけないものだと思うんです。レッズはギドがチームを指揮した時代から個人能力を全面に押し出したサッカーを特長としてきた。それで結果も残しましたしね。ただ今は、その傾向からもう一段階ステップアップする時期にきているのかなと感じます。結局今のレッズのサッカーは、選手の陣容が代わることでガラッと内容が変わる。例えば去年まではワシ(ワシントン)がいる場合と彼が不在で僕が1トップを務める場合とではサッカースタイルがまったく変わるわけです。またエメルソンがエースだった時代も違いましたよね。つまり、レッズのサッカーと言っても一括りにはできない。今季でいえば、闘莉王が前線に上がっただけでスタイルが変わる。そこをチームとしてどう認識しているのかが大事だと思うんです」

 オジェックからゲルト・エンゲルスへと指揮官が代わり、浦和は個人技重視のサッカーへと回帰していった。2008年シーズン、永井はクラブ批判とも取れる発言を繰り返してメンバーから外れ、焦燥の時を過ごし、ひとつの結論を見出した。
 希代のドリブラーが浦和を去る。願わくは、改革を掲げたフォルカー・フィンケの下で輝く背番号9が見てみたかった。

<写真>2008年の永井。試合中、笑顔を見せることもあったが、起用に対する不満は持ち続けていた。2009年、新天地で勝負をかける

※本企画は毎週水曜更新予定です。感想はこちらまでお寄せください。

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