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『SEVENDAYS FOOTBALLDAY』:20年後の帰還(ヴィアティン三重・和波智広)

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ヴィアティン三重の和波智広は古巣・湘南に“恩返し”の勝利

東京のユースサッカーの魅力、注目ポイントや国内外サッカーのトピックなどを紹介するコラム、「SEVENDAYS FOOTBALLDAY」

 生まれ育った三重の地を後にして、このスタジアムを自らの“家”と定めた時から、ちょうど20年が経った。見慣れたメインスタンドへ挨拶に向かうと、あの頃と同じ色のユニフォームを纏ったサポーターが、あの頃と違う色のユニフォームを纏った自分とチームメイトたちに、大きな拍手を送ってくれる。「試合が終わってから温かく迎えてくれたのは、本当に沁みました。あの頃が甦るというか。『本当にサッカーをやっていて良かったな』と思う瞬間でしたね」。それはまるで、サッカーというかけがえのないものと真摯に向き合ってきた20年間に対するご褒美のような瞬間で。かつての“家”へ帰ってきた和波智広は、スタンドを見上げながら静かに“あの頃”を思い出していた。

「オレンジを身に纏い この場所で魅せろ三重魂!」オレンジの一団が楽しそうに歌い、笑い、飛び跳ねる。7月3日。天皇杯2回戦。湘南ベルマーレのホームスタジアム、Shonan BMWスタジアム平塚の一角で、ヴィアティン三重のサポーターは今や遅しとキックオフを待ち侘びている。

 チームの代表取締役社長を務める後藤大介は、仲間の心を代弁する。「それは楽しみですよ。Jクラブとの対戦は5年ぶりですので。応援団も全力を出していますから、勝つか負けるかというよりは感動を、見に来た人、三重県で待っている人に届けることができるかと、もうそこだけですね。めったにないことですから、90分なのか、延長まで行くのかわからないですけれども(笑)、楽しみたいなと思っています」。アップに向かう選手が登場すると、オレンジのボルテージも一段階上がる。

 スタメンから1人ずつ、それぞれのチャントが選手へ届けられる。その最後の18番目。「ワナミトモヒロ、ラッラッラー ワナミトモヒロ、ラッラッラー」。子供の声も混じった軽快なメロディがピッチへこだますると、チーム最年長の39歳は片手を上げて応えてみせる。「もう知っている人は少ないですけれども、僕がプロ生活を始めたクラブなので、やっぱり本当に思い入れがあるし、対戦が決まった時から凄く楽しみにしていたのは事実ですね」。変わらないバックスタンドのスコアボードが懐かしい。ヴィアティンの7番を背負った和波智広にとっては、この日の対戦相手に当たるベルマーレも、この日の舞台の“平塚競技場”も、どちらも一言では言い表せない思い出が刻まれている“特別”だ。

 1999年。三重県の暁高校を卒業したばかり。まだ18歳だった和波は、ベルマーレ平塚でプロサッカー選手としてのキャリアをスタートさせる。ただ、クラブにとっては激動の時代。メインスポンサーだったフジタが撤退し、主力選手の大半も移籍を選択。古参のクラブスタッフも「存続できるのかもわからない時期だったから、苦労というか混乱していましたね」と当時の状況を明かす。

「僕たちはルーキーだったので、とにかく勝つために、クラブが残るために、必死でサッカーをして、必死でサッカー以外のことも協力しながらやったつもりですけど、そんな大したことはできなかったのかもしれないですね」とその頃を思い出す和波は、早くも春先にJリーグデビューを果たすと、セカンドステージからレギュラーに定着。最終節のジュビロ磐田戦ではゴールまで記録し、チームはJ2降格の憂き目を見たものの、個人としては上々のルーキーイヤーを過ごす。

 仲が良かったのは同い年の西本竜洋。「タツとは同期でね。ホームシックを2人で何とか乗り越えようと(笑)、2人で我慢というか、耐えながら、という思い出がありますけどね。懐かしいですね」。その話題に触れた顔が思わずほころぶ。三重出身と山口出身。慣れない関東での生活を支え合った20歳前後は、いろいろな意味で濃厚な時期だったに違いない。前述のクラブスタッフは、あることを強く記憶している。「凄く大きな“韋駄天”って書いてある横断幕が印象深いんです」。タッチライン際を疾走する姿が、サポーターの熱狂を誘う。

 2000年に主力としてJ2を1年間戦い抜くと、J1昇格が決まっていたコンサドーレ札幌への移籍を決断したため、ベルマーレに在籍したのは2年間だったが、苦難を共にしたクラブへの想いは決して小さくない。「2年でしたけど、自分のターニングポイントになった時期ですし、高卒で入っていろいろ勉強させてもらった本当に特別なクラブなので、今こうやってJ1で頑張ってくれているという意味でも、凄く自慢のクラブですよね」。時間を超えた結び付きを、ベルマーレに感じてきた。

 コンサドーレではキャプテンも経験。左サイドのキーマンとして活躍を続けたものの、2006年から少しずつ出場機会を減らし、チームが昇格を果たした翌年は病気療養に専念したこともあって、リーグ戦の出場はわずかに2試合。2008年3月にクラブから現役引退のリリースが発表される。9年間のプロ生活で積み重ねた数字は、公式戦246試合13ゴール。和波は27歳でサッカー選手という職業に一旦の終止符を打った。

 地元の三重に戻り、歩み出したセカンドキャリア。ジンギスカン料理屋を経営しつつ、しばらくしてサッカースクールも開校する。その名も“WANAサッカースクール”。「話をもらった時には、『子供たちのためにもなるし、もう1回サッカーできるのは嬉しいな』と感じたので始めたんですけど、そこで子供たちを教えたのも良かったのかなと。子供たちを見ていて、サッカーを始めた頃の嬉しさや楽しさを思い出したんです」。サッカーと関わっていきたい意欲の炎が、自分の中で改めて大きくなっていく。

 2013年。運命を左右する時計の針は、本人の知らない所で新たな時を刻み出す。「ゼロから立ち上げたヴィアティンなので、2年目によりレベルアップしなくてはいけないと考えていた中で、ウチの前監督でもともと暁高校サッカー部でも監督だった海津英志さんが『そう言えば和波は今サッカーやってないよな』と思い出して。それで連絡して頂いたんです」と後藤。かつての恩師から届いた誘いに、和波は決断する。

「そんなに甘い世界ではないですし、それは自分が一番よくわかっていることなので、その時までは現役復帰なんて思ったことはなかったです。でも、Jリーグを目指そうというクラブが立ち上がって、地元の人間だということで声を掛けてもらったので、『はい』と。まあ、不摂生はしていなかったですから(笑)、非常に体のコンディションは良かったかなと思います」。当時ヴィアティンが所属していたカテゴリーは三重県2部リーグ。5年のブランクを経て、土のグラウンドから和波のサッカーキャリアは再び動き出した。

 そのカテゴリーも彼の“復帰”には合っていたようだ。「なかなか昔の感覚は戻らないので、県2部、県1部という舞台も、自分のリハビリじゃないけど、そこで感覚を徐々に戻せたのはありがたかったですし、自分にとっては良いタイミングだったかなと思います」。県1部、東海2部、東海1部と毎年カテゴリーを上げ続ける快進撃を披露するも、和波は「僕たちもそんなにずば抜けて強かった訳でもないし、楽に勝てる訳でもなかったので、運が良かったかなと。本当に僕たちも思ってもいない展開が続いてくれて、あれよあれよという感じでした」と口にする。

 2016年末に全国地域CLを勝ち抜き、見事昇格したJFLも今年で参戦3シーズン目。クラブ自体も総合スポーツクラブという位置付けの中で、陸上やハンドボールを筆頭に12種目のスポーツに関わっており、「地域の活性化、街づくり、子供たちに夢を与える、というクラブ理念がある訳ですけれど、スポーツを通して魅力のある三重県にしたい気持ちが強いんですよね」と熱く語る後藤の想いの実現に向けて、着実に一歩ずつ前進しているようだ。

 迎えた2019年。クラブは監督に経験豊富な上野展裕を、ヘッドコーチに地元出身の阪倉裕二を招聘し、コスモ石油サッカー部での指導経験を有する山本好彦がGMに就任。さらなるステップアップを狙うための陣容を整えると、天皇杯の三重県予選決勝では3年連続で苦杯を嘗めさせられていた鈴鹿アンリミテッドFCをPK戦の末に撃破し、5年ぶりの県制覇を達成。本大会の1回戦でも関西学院大学を延長戦で振り切って、ベルマーレへの挑戦権を手にいれた。

「オレンジを身に纏い この場所で魅せろ三重魂!」オレンジの一団が楽しそうに歌い、笑い、飛び跳ねる。7月3日。天皇杯2回戦。湘南ベルマーレのホームスタジアム、Shonan BMWスタジアム平塚の一角で、ヴィアティン三重のサポーターは今や遅しとキックオフを待ち侘びている。

 選手紹介時に和波の名前がコールされると、サポーターが歌うチャントに、スタンドの逆側からも拍手が混ざり合う。ベンチスタートとなった和波はアップを終え、短くスタンドをグルリと眺めながら、ロッカールームへと姿を消していく。スタメンの11人が入場してきたタイミングで、打ち振られたのは光るオレンジのペンライト。メインスタンドの“片方”があっという間にヴィアティンカラーで染め抜かれる。「天皇杯でもこれだけ多くの人が来てくれるなんて、なかなか下のカテゴリーではないことですよね」と和波。大きな希望と期待と、ほんの少しの不安が溶け合う中、主審の試合開始を知らせるホイッスルが鳴り響く。

 最初の衝撃は前半22分。和波と同じく2013年に現役復帰する形でヴィアティンへ加わった、三重出身の坂井将吾がとんでもないミドルをベルマーレゴールに叩き込む。沸騰するオレンジ。どよめきが収まらない。後半5分にもやはり三重出身の北野純也からパスを受け、坂井が2点目をマークすると、その8分後には森主麗司のシュートをGKが弾いた所に、またも坂井。驚愕のハットトリックが飛び出し、ヴィアティンのリードは3点に広がる。

 上野監督は後半16分と19分に相次いでカードを切ったため、残りの交替枠は1つだけに。26分には相手のミスを見逃さず、北野もゴールを陥れてスコアは0-4に変わる。そして36分。とうとう最後の交替選手として、ピッチサイドに7番の姿が現れた。「僕が入る時には拮抗した状態とか、負けている状態とか、そういう流れかなとは思っていましたけど、監督の計らいなのか(笑)、ただ単に交替だったのかわからないですね」。コンサドーレ時代にアウェイゲームで訪れて以来。実に13年ぶりとなる“平塚競技場”のピッチに、和波が力強く駆け出していく。

「いつもやるポジションよりは1個前で、どうしても前の選手は疲れるので、その分しっかりカバーしないといけないと思っていましたけど、点差があったので気持ち良くというか、楽しみながらできました」。39分には井上丈の右CKをヘディングで合わせるも、ボールは枠の上に外れ、これには「まあ、そう簡単には入らないですよね」と苦笑い。以降も左サイドハーフの位置でチームの勝利を引き寄せるべく、丁寧にプレーを重ねていく。

 夢のような時間こそ、過ぎ去るのは早いもの。アディショナルタイムも含めれば15分弱。かつての“家”との再会に終わりを告げる、短い3度の笛。「複雑な所はあります。ちょっと点差が開いたので、あまり喜ぶのもとは思いましたけど、勝つことも恩返しというか、『ありがとう』と伝えられるメッセージかなと思いますし、ベルマーレにはリーグ戦に集中してもらいたいなと思いますね」。最高潮に達するオレンジの歓喜。0-4という圧倒的なスコアで、和波にとって特別な90分間は幕を下ろした。

 見慣れたメインスタンドへ挨拶に向かうと、あの頃と同じ色のユニフォームを纏ったサポーターが、あの頃と違う色のユニフォームを纏った自分とチームメイトたちに、大きな拍手を送ってくれる。「試合が終わってから温かく迎えてくれたのは、本当に沁みました。あの頃が甦るというか。『本当にサッカーをやっていて良かったな』と思う瞬間でしたね」。それはまるで、サッカーというかけがえのないものと真摯に向き合ってきた20年間に対するご褒美のような瞬間で。きっと“7月3日”をこの先、和波が忘れることは決してないだろう。

 後藤は和波がチームに与える影響を、こう力説する。「加藤秀典もそうですけど、大ベテランの選手が率先して準備、片付け、トレーニングをストイックにやっている姿、スタメンで出られなくても腐らずに常に全力で練習して、チャンスが来たら今日みたいに試合に出る、その姿は『本当にお手本になります』と必ず若い選手が言うんですよ。それはクラブとしても求めていた所ですし、彼らは日頃の態度から尊敬されているので、そこがウチの土台を支えているような気がするんですよね」。

 その上で、今後のクラブに必要な人材だという認識もはっきり持っているようだ。「フロントとして見ると、活躍する場は物凄くあるので、それがスカウトなのか、スクールコーチなのか、アカデミーの監督やコーチなのか、やって欲しい仕事はいくらでもあります。だから、選手を続けて欲しいとは言いながら、『いつでも“こっち側”はウエルカムだよ』と思っています。本人には言ったことないですけど(笑)」。

 和波も以前から抱えていた想いを明かす。「地元にJリーグのクラブがないことが、子供たちにサッカーを教えていて、やっぱり悲しいんです。どこを目指すかという所で、もっと今日みたいな雰囲気を味わって、目標や夢を持ってくれるとまた違うかなと思うので、そこですよね。そういう土台をできるだけ作れたらなと思いますよね」。

 ニュアンスは違うものの、後藤も和波も揃って“土台”というフレーズを口にした。彼らが今築いているものは、そういうものなのだろう。クラブのため。サポーターのため。そして、何より三重県の子供たちのため。幾重にも積み重なっていくはずの未来を信じ、その“土台”を作りたいという使命感が、ヴィアティンを取り巻く人々を衝き動かしている。

 あえてシンプルに尋ねてみる。「夢ってありますか?」。少し考え、「夢かあ…」と呟いた和波は、自らの心を探るように少しずつ言葉を紡いでいく。「まあ、選手の内は近くの夢というか、とりあえず天皇杯も1つずつ勝ちたいと思うし、Jリーグに上がりたい気持ちもあるし、たくさん秘めた夢を持ちながら、自分ができる限りのことをやりたいなと思います。叶えて、初めて良かったと思えるはずなので、夢はたくさん持っていたいですし、こういうふうに好きなサッカーをやって生活が送れていることを、幸せに思わないといけないですよね。今、幸せだと思います」。

 ベルマーレに“20年後”が来たように、ヴィアティンにも“20年後”が必ず来る。その時、クラブに関わる人々はこの“土台”の時期のことをきっと思い出す。後藤大介という男の献身を。和波智広という男の躍動を。そうやって積み上げられていく今が、希望に溢れる未来を形作っていく。「オレンジを身に纏い この場所で魅せろ三重魂!」。20年後の“この場所”は果たしてどの場所なのか。それを夢見る権利は、言うまでもなくオレンジを身に纏う彼らの1人1人に等しく与えられている。

■執筆者紹介:
土屋雅史
「(株)ジェイ・スポーツに勤務。群馬県立高崎高3年時にはインターハイで全国ベスト8に入り、大会優秀選手に選出。著書に「メッシはマラドーナを超えられるか」(亘崇詞氏との共著・中公新書ラクレ)。」

▼関連リンク
●第99回天皇杯特設ページ
SEVENDAYS FOOTBALLDAY by 土屋雅史



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