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「自分が教材」ブラインドサッカー日本代表・黒田智成の授業風景

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ギターを弾きながら社会科の授業をすすめる黒田智成(撮影:西崎進也)

 東京五輪、パラリンピックを8か月後に控え、ブラインドサッカー選手にとっても特別な年がはじまった。全盲の人がプレーするブラインドサッカー日本代表のストライカー、黒田智成は東京・八王子盲学校で社会科を教える中学教諭でもある。

「ブラインドサッカーと同じぐらい、教員の仕事もすごく大きな存在です。サッカーを通じて学んだこと、世界で見てきたこと、世界と戦ってきたことを伝えられますし、生徒やその保護者にとって、視覚障がい者のひとつのサンプルになると思うからです。身を切り売りしながら、自分自身が教材になっている感じですかね」

 黒田は1978年生まれの41歳。生後3カ月でガンが見つかり、左目を摘出。右目も極端に視力が低いまま過ごし、6歳で右目も摘出した。

「子供同士だと目が見えないことへの配慮がなかなかできなくて、いじめなどに発展するケースもあるようですが、僕にはなかった。それは今でも交流している同級生の友人がいたからです。僕は保育園と小学生の1か月間だけ近隣の学校に通いましたが、その後は目のこともあって、家から遠い場所にあった盲学校に通いました。すると、週末は家の近くに友達がいない。友達の輪に入りづらい状況の中で、その友人が間に入って仲間に入れてくれたんです」

 たとえば、自転車でみんなでどこかに出かけよう、となっても黒田は乗ることができない。その友人が「俺も(トモと)歩いていくから」と言って、いつもそばにいてくれた。どうしたらいつも友達の輪の中で一緒にやれるかを考えてくれたという。

「仲間に入りづらいという意識は、結局、自分が自分で『壁』を作っていたかもしれないし、周りの人も障がい者と接する『壁』があるのかもしれない。お互いに殻を破って接していくことが大事なんじゃないかということを、彼が教えてくれました。その頃から人の心ってどういう動きをしているんだろうか、と興味がありました」

 久留米大で心理学を学び、並行して教職課程もとっていた。大学4年時の教育実習で転機が訪れる。母校の盲学校ではなく、普通高校で2週間、授業をした。目が見えない自分が、見える生徒にどんな授業をしたら聞いてもらえるのか、悩みの連続だった。

「現代社会の授業のために、寝る間もなく準備しましたね。僕は板書ができないので、板書のかわりとして黒板に貼る大きな紙や個別に配るプリントを用意しました。生徒の何人かが『先生の授業はたくさん考えて疲れたけど、面白かった』と言ってくれて、努力して準備するとその努力は伝わるんだな、とうれしかったのを覚えています」

 2004年に東京都の教員に採用された黒田は、点字受験での合格者としては東京都で2人目だった。教育実習で植え付けられたこの仕事の原点は今に至るまで続いている。12月下旬、八王子盲学校の中学3年生の社会科の授業をのぞくと、視覚障がいがある生徒でも飽きずに、かつ楽しく学べる工夫が散りばめられていた。

 50分の授業の最初に生徒のひとりを指名し、その日気になったニュースを発表してもらう。高齢者ドライバーの事故防止のため、免許更新で実技訓練が導入されることについてだった。その話をきっかけに結局『その法令は誰が決めるのか』という流れを作り、選挙についての話題に導いた。教科書でぜひ覚えてほしい用語については黒田がその日の朝、即席で替え歌を作り、ギターを弾いてみんなで歌った。

「視覚障がいがある人は、入ってくる情報量がどうしても少ない。生徒には情報を意識して取りに行く習慣をつけてもらいたいし、ニュースで流れていることが教科書で習っていることにつながっていることを感じてほしい。今日は授業で使いませんでしたが、僕が日本代表の遠征に行った後などは、点字入りの地球儀を持ってきて、どこの国に行ったか生徒に触ってもらってますよ」

ブラインド合宿での合宿風景

 ブラインドサッカーとの出会いは教員になる前の筑波大大学院2年の時。神奈川県で行われた講習会に当時住んでいたつくばから2時間かけて行った。

「幼少のときにテレビで見たキャプテン翼に憧れて、遊び程度でボールを蹴っていましたけど、自分でもやれるサッカーがそこにあるんじゃないかと。ピッチの中では自由に走り回れることに魅かれました」

 2002年に日本代表が発足し、最初の海外遠征となった韓国遠征のときから日本代表のストライカーとして選ばれ続けている黒田。今では、背番号11をつけることが多く、いわばブラサカ界のカズこと三浦知良のような存在だ。ブラインドサッカーの場合、全盲の選手がサイドラインがわかるよう、試合の時にはサイドフェンスを立てるが、最初はその物自体がなかったため、練習の時は人を集めてサイドライン上に一列に並び、ボールを持っている選手が近づいてきたら「壁、壁」と叫ぶ「人壁」で練習した時期もあったという。今年まで17年間、ピッチに立ち続け、パラリンピック予選にも3度挑戦したが、そのたびに涙を飲んできたため、今回もし日本代表に残れれば、初出場となる。

「ずっと目標にしてきた舞台で戦える可能性があることがうれしい。パラリンピックに出られれば、ブラインドサッカー選手というより、社会の先生、視覚障がい者の先輩として示せることがあると思っています。
 以前、『全盲の人が働けるんですか』『全盲の人は結婚できるんですか?』とできないことばかり考えている生徒がいたんですが、教師もして、結婚もしている自分の姿を見てもらえば、絶対にできると思ってもらえる。世界を相手に目標を高く持ってチャレンジしていることを身近に感じてもらうことで『自分も世界を目指してみよう』『視覚障がい者でもできる』と考えてほしいし、実際、世界に出て結果を出している選手もいますから」

 2012年、ロンドンパラリンピックのゴールボール(1チーム3人で鈴のなるボールで転がしあって点を奪うゲーム)で当時17歳で金メダルに輝いた若杉遥は黒田の教え子だ。さらに、日本代表で活躍を続ける川嶋悠太などもいる。日本の注目を集める東京で、黒田は先生の意地を見せたいと思っている。

(取材・文 林健太郎)

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