beacon

青森山田、静学、桐光も進学先候補だった…遠藤航の初著書『「楽しい」から強くなれる』第2章を特別無料公開!

このエントリーをはてなブックマークに追加

 10日、⽇本代表MF遠藤航(シュツットガルト)初の著書『「楽しい」から強くなれる プロサッカー選⼿になるために僕が⼤切にしてきたこと』が発売になった。

 ゲキサカでは特別に「第2章(2nd Step)より高いレベルに身を置く」を無料で公開します。ぜひこの機会にご覧ください。

2nd Step:より高いレベルに身を置く

いつもどおりの自分で



 湘南ベルマーレからユースチームの練習に呼ばれたのは、センターバックとしてプレーするようになっていた中学3年の夏だった。

 部活で、先生から「センターバックをやってみないか?」と言われていなければ、僕にとってプロ選手は夢のままだったかもしれない。

 GKコーチの先生がクラブにコネクションがあり、前の年にもサッカー部の先輩に声がかかったことがある。ユースチームに引っ張られはしなかったものの、練習に呼ばれただけでも「すごいな」と正直思った。

 僕らの代では、フォワードをやっていた選手を含めた3人が練習に参加することになった。

 クラブ側は、ゴールキーパーの桜井が目当て。練習に呼ばれる前に湘南ユースとの練習試合を組んでくれたときも、もちろん僕らが負けたけど、ゴールキーパーのスカウトが目的だったと思う。

 桜井の手前が定位置になっていた僕は、「センターバックにも面白そうな選手がいる」と思ってはもらえたようで、一緒に練習参加の声がかかることになった。

 とはいえ、いい意味での緊張感はあっても、ガチガチに硬くなったりはしなかった。

 ただ、「中学生には無理」と思っていた教本の内容を、同世代の選手たちが普通に実践している光景には驚いた。

 チャレンジ&カバーなんて当たり前。プレッシングも素早くて、「やっぱ、Jリーグのユースは違う」と感心した。

 湘南のユース選手たちに交じって練習試合に出たのは、2回目の練習参加のときだったと思う。

 相手は柏レイソルのU─18チーム。学年でいうと僕より2つ上、計9人がプロ入りすることになった、とんでもなく強い世代のチームで、指宿くん(指宿洋史/現清水エスパルス)や、タケくん(武富孝介/現京都サンガ)がいた。今は日本代表チームメイトの宏樹くん(酒井宏樹/現浦和レッズ)も、柏でユースから上がった「1990年生まれ」の1人だ。

 チームとしては負けたけど、個人的には手応えがあった。すごくいい感覚でプレーできていた記憶がある。得意のヘディングでは、今では身長195センチの指宿くんにも勝てた。

 後から聞いた話では、当時、湘南のU─18チームの監督だった曺さん(曺貴裁/現京都サンガ監督)が、身長差があっても空中戦で負けない僕を見て、「遠藤は空間認識能力が高い」と言って評価してくれたらしい。

 最終的には、湘南のユースチームとトップチームの両方で指導を仰ぐことになる曺さんとは、中学3年での練習参加が初対面で、「めっちゃ優しい人だな」という第一印象だった。

「卒業後はどうするんだ?」、「湘南のユースを第1候補で考えてくれているのか?」と声をかけてくれて、僕は「はい」と答えた。

 湘南は当時2部リーグに落ちていたから、心の片隅に「JリーグのクラブだけどJ1じゃない」という気持ちがほんの少しだけあったものの、もし入れてもらえるのなら絶対に入りたいと思っていた。


 そのころは、プロの下部組織が難しそうなら、高校サッカーの強豪校に進学しようと考えてもいた。

 候補は、神奈川県内では桐光学園。県外では、青森山田高校や静岡学園あたり。サッカー留学で寮生活をする覚悟もできていた。

 静岡学園は、湘南から練習参加後の返事が来る前のタイミングで一次選考は受けて、通った後に湘南ユース内定の知らせがあったので二次は受けなかったような気がする。記憶が定かじゃないくらい、湘南のユース入りは嬉しかった。

 実際には、その後で湘南のセレクションにも参加して、選考過程の一部だった練習試合でもプレーした。といっても、内定をもらっていたから、形式上の参加だった。

 当日のセレクションだけで合格した参加者は1人しかいなかった。

 もし自分も同じ条件だったらどうなっていたかはわからない。ただ、あのユースとの練習試合でも、静岡学園のセレクションでも、僕はそれほど緊張しなかった。「自然体で」と意識することもない。

 基本的に自分は自分と思っているからだけど、特別に緊張しない裏には、自分としてやれるだけのことはやった、という思いもあるのかもしれない。

刺激を楽しむ


 僕は歩いて30分ほどの公立高校に通いながら、湘南ユースに入ることになった。

 プロのユースは、部活でサッカーをしていた僕にとっては別世界のような環境だった。

 当たり前の話だけど、みんな上手い。

 周りは小学生でセレクションを通過して入団しているようなエリート選手ばかり。しかも、たとえ高校1年生でも、選手としての能力が高ければ3年生を差し置いてでも試合で使われる。

 中学のサッカー部では、やっぱり普通は上級生が試合に出ていた。僕自身は幸運にも1年生のころから使ってもらっていたけど、そういうケースはあまりない。

 それが、学年なんて関係ないユースチームは、もう実力がすべてのプロの世界だ。

 ユースのチームメイトには、年代別の日本代表に選ばれている選手もいた。僕より1年早い1992年生まれでも学年は同じ岡㟢亮平(現FC琉球)で、ポジションもセンターバック同士。それまで、県のトレセン入りを目指すのが精一杯だった自分にとっては衝撃的だった。

 もちろん、ずっと県のトレセンにも選ばれてきた彼にすれば、ユース代表入りも当然の流れだろうけど、同学年の代表選手には触発された。

 もともとマイペースだから、特別にライバルとして意識したわけじゃないし、仲も良かった。そういう選手と一緒にサッカーができるレベルに自分がいられることが嬉しくて、新しい刺激を日々楽しんでいた。

目標をブレイクダウンする


 プロ選手と同じく、ずっと夢だった代表選手が現実的な目標になったのも、ユースに入ったころだ。

 小学生のときから、身近な目標を決めて、それを達成するために何をすべきかを考えながらやってきた僕は、頭の中で、「自分が年代別代表に選ばれるようになるには?」と考えるようになった。

 絶対に叶えたい夢に向かう途中で、その都度、頑張れば届きそうな目標を現実とのバランスを考えながら設定できる人間は、地道な努力を繰り返しながら、少しずつでも着実に夢に近づいていくことができると思う。

 そんな姿を、見ていてくれる人は絶対に見ていてくれる。体格に恵まれているわけでも、ずば抜けて足が速いわけでもなく、プレースタイルに華があるタイプではないうえに、地味なセンターバックというポジションでプレーしていた僕みたいな選手が、プロのユースチームに入ることができたように。

 ユースに入った当初の僕にとっては、体作りからして「今やるべきこと」だった。

 個別のロッカーまで用意されているジムを使えること自体が「すごい」と感じつつ、チーム練習の前と後に汗を流して筋トレに励んだ。毎日の食事もかなり意識した。

 まずは、栄養のバランスというより、食べる量そのもの。

 周りからも、もっと食べて体重を増やすように言われていたので、学校で二段弁当プラスおにぎり2個は普通に食べて、さらにユースチームの練習後に食べることもあった。

 センターバックとしてのプレーに関しては、フィードの中でも縦パスを意識して取り組んだ。

 足元の技術はそれなりにあったと思うけど、速くて厳しいプレッシャーを受けながらでも、遠くを見て、前の選手に楔のボールを入れられるように意識した。それも、まっすぐじゃなく、敵にも読まれにくい斜めに入れるパスを、頭にあるイメージどおりに出せるようになりたかった。

 フィードのタイミングにしても、無駄な手数をかけずにワンタッチでパスを出してみたり、状況によっては少しドリブルで運んでから斜めの楔を狙ってみたりしながら、その精度にもこだわるようになった。

自分の現在地を知る


 高校時代のターニングポイントは、2年生のときだ。

 2009年の秋に新潟で開催された第64回国民体育大会に、神奈川県代表チームの選手として出場し、キャプテンを務めて優勝することができた。

 国体のサッカー少年の部は16歳以下が対象だから、チームの構成は学年が1つ下で15歳の選手がメインになる。

 早生まれが幸いして高校2年で選ばれていた僕は、キャプテン候補の「上級生」の1人だった。だから、ラッキーではあったけど、ほかにキャプテンに向いていそうな選手もいたので、最終的に指名してもらえて嬉しかった。

 同じころ、目標だった年代別代表入りも果たすことができた。

 初めての経験は、2009年8月の第10回豊田国際ユースサッカー大会でのU─16代表入り。メキシコと韓国のU─16代表チームも招待されていて、初めて海外の同世代と戦うピッチを経験した。

 年明け1月には、海外そのものを初体験することになった。コパチーバスというU─18レベルの国際大会に出場するメキシコ遠征メンバーに選ばれたときだ。

 フライトでの移動は、もちろんエコノミークラス。アメリカ経由で、片道20時間くらいかかった初めての海外は、とにかく遠かった。

 肝心の大会のほうは、日本は3年後の2011年U─20ワールドカップを見据えて、U─17代表チームで参戦していたにもかかわらず決勝まで勝ち上がった。

 最後の最後で開催国メキシコに1─2のスコアで負けてしまったけど、相手は年齢グループが1つ上のチーム。その前の2年間はグループステージで敗退していた大会で、過去最高の成績を残して帰国することができた。

 もっとも、僕自身には過去の成績と比べてどうこう言っている余裕などなかった。

 U─17代表入りの嬉しさでいっぱいで、試合でしっかりプレーすることしか考えられなかったし、初めての海外遠征の緊張と長時間のフライトで、充実感と同じくらいの疲労感とともに日本に帰ってきた。

 選手として、「海外」という意識が芽生えるきっかけではあったけど、まだ「海外移籍」を考えるところまではいかなかった。

 真剣に海外でプレーしたいと思うようになったのは高校3年になってからだ。

 日本のサッカーも技術や組織の部分では能力が高いから、集団としては渡り合えても、やっぱり個の部分で外国人との身体能力の差を思い知らされることはある。

 いい試合をしていても、最終的には、ずば抜けたフィジカルを持つ選手や、嘘みたいに足が速い選手にやられてしまうようなことがある。

 そういう日本人の感覚では規格外みたいな相手との勝負は面白いし、対戦すればするほど、ますます興味をそそられた。

 ただ、まだ湘南のユース選手にすぎなかった当時の僕としては、かえって実力の差が実感できたから、まずはトップの1軍でプレーできるようにならなければ何も始まらないという気持ちでいた。

やるべきことをやる


 僕が湘南でトップチームに昇格することができたのは2010年。

 小学生でJリーグのクラブの下部組織に入れるようなエリートではなく、中学時代も部活でサッカーをしていて、高校からやっとプロのユースチームに入った自分も、ついにプロ選手という夢の入り口まで辿り着くことができた。

 もちろん、実力的に同じくらいだと思える選手や、自分よりレベルが高いと感じる選手はたくさんいる。

 だけど、夢の実現を目指して自然と努力を続けられるほどサッカーが好きなら、「あいつのほうが俺より上手い」みたいに思って落ち込んじゃいけない。足を止めちゃいけない。そんな必要はまったくない。大事なのは、「好きだから上手くなりたい」という自分の気持ちだけだ。

 自分より「上」の選手なんて、それこそ世界に目を向ければいくらでもいる。高校3年の終わりにプロになることができた後も、僕自身が痛感し続けているように。

▶購入して続きを読む

【内容紹介】
はじめに
1st Step:「楽しい」ことを⾒つける
2nd Step:より⾼いレベルに⾝を置く
3rd Step:どうすればもっと強くなれるか考える
4th Step:⾃分の道を決める
5th Step:未知の世界に⾶び込む
6th Step:“遅すぎる”挑戦はない
おわりに:サッカーよりも⼤切なこと
あとがき
特別寄稿:移籍の舞台裏
(株式会社ユニバーサルスポーツジャパン 代表取締役 遠藤 貴)

【書籍概要】

■書名:「楽しい」から強くなれる プロサッカー選⼿になるために僕が⼤切にしてきたこと
■著者:遠藤航
■発売日: 2021年9月10日
■発行元:ハーパーコリンズ・ジャパン
■定価:本体1540円(税込)
■ページ数:204ページ
■判型:四六判ソフトカバー
■ISBN:978-4-596-01370-5 C0095
▶購入はこちらから

TOP