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10年目の悲願成就、ピクシー「名古屋の歴史の一部になれた」

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[11.20 J1第31節 湘南0-1名古屋 平塚]

 これほど絵になる男はいない。名古屋グランパスの初優勝を告げるホイッスルが鳴り響くと、ストイコビッチ監督はピッチ上で歓喜の輪をつくる選手に背を向け、メインスタンドに向かって両手を広げた。

 ガッツポーズの先には、スネジャナ夫人の姿があった。ピッチレベルに下りてきた愛妻と約20秒間の熱い抱擁。愛する家族、選手、サポーターに捧げる悲願のタイトルだった。

 「我々は優勝しました。ありがとうございます」。優勝会見の冒頭、日本語で挨拶した指揮官は時折、目にたまる涙を指で拭い、淡々とした口ぶりの中にも初優勝の喜びをにじませた。

 「エモーショナルな気持ちでいる。7年間は選手、3年間は監督として、グランパスに10年間かかわってきた。今は幸せな気持ちだし、グランパスの歴史に残ることができたことを誇りに思う。落ち着いているし、浮ついてはいないが、ハートの部分では本当にうれしく思っている」

 ピッチ上で選手から胴上げを受けると、3度目に宙を舞ったとき、思わず両手で顔を覆った。さまざまな記憶が、ピクシーの脳裏をよぎった。

 「選手時代、ヴェルディ川崎と優勝を争い、ホームで負けて優勝を逃したことがある。優勝は難しいなと思ったこともある。今は違う立場になったが、必ずグランパスにタイトルをもたらしたいという強い信念を持ってやってきた。3年目に優勝できて、ラッキーもあったかもしれないが、素晴らしい1年だった」

 94年夏、名古屋に移籍したピクシーは当初こそ慣れない環境に気性の荒さも出て、退場を繰り返すなど苦しい時期を過ごしたが、アーセン・ベンゲル監督の就任とともに輝きを取り戻し、チームを躍進させた。見る者を魅了する鮮やかなテクニックと、勝利への強い意志。95、99年度と2度の天皇杯制覇に貢献し、95年はJリーグMVPにも輝いた。しかし、リーグ戦は96年の2位など、あと一歩タイトルに届かず、01年7月、惜しまれながら現役を引退した。

 ならば指揮官として名古屋を優勝させたい。就任1年目の08年、いきなり3位に食い込むと、クラブ史上初のACL出場権を獲得。09年はリーグ戦こそ9位と苦しんだが、ACLではベスト4と日本勢で最高の成績を残した。そして3年目のリーグ制覇。現役時代同様、ピクシーが名古屋に勝者のメンタリティーを植え付けた。

 ストイコビッチ監督は、8月14日の第18節で浦和を3-1で下し、初めて首位に立ったときに「優勝を意識するようになった」と振り返る。今季は7敗しているが、敗戦直後の試合は7戦7勝。引き分けもリーグ最少の3回しかない。連敗しない強さと、接戦をものにする勝負強さ。首位浮上後は一度たりともトップの座を明け渡すことなく、初優勝を成し遂げた。

 2ステージ制から1シーズン制に移行した05年以降、優勝争いは毎年、最終節までもつれ込んだ。3試合を残しての優勝。初めて最終節を待たずに決まった優勝が、今季の名古屋の強さを何よりも物語っている。

 「名古屋は私にとって第2の故郷。選手時代はテクニックやいろいろなプレーを見せることで喜ばせることができたが、今度は違った部分でプレゼントができた。みんなに甘いケーキを贈ることができたのが私の喜びで、名古屋の人々に恩返しできた。人生で人々に感動を与えられるというのは幸せなことで、忘れられない瞬間だ。名古屋に新しい歴史を残せたこと、その一部に自分がなれたことがうれしい」

 V川崎(現東京V)、横浜M(横浜FM)、鹿島、磐田、G大阪、浦和に続く7チーム目の王者。ピクシーがまたも名古屋の歴史に、そしてJリーグの歴史に新たな1ページを刻んだ。

[写真]サポーターの声援に応えるストイコビッチ監督

(取材・文 西山紘平)

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