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田嶋副会長が松田を悼み「トルシエに反発しながらレギュラーをつかんでいった。スケールの大きな選手だった

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U-17日本代表として中田英寿氏らとともに17歳以下の世界選手権(現U-17W杯)に出たのはJリーグが開幕した93年のことだった。当時、前橋育英2年だった松田直樹氏は、180センチを超える屈強な身体と高い足元の技術を有する選手として、サッカー関係者の期待を集める存在だった。

その当時から松田氏を知る田嶋幸三・日本サッカー協会副会長も、氏の若すぎる死を悼み、沈痛な面持ちで思いを語った。

「スケールの大きい選手で、トルシエに反発しながら、しっかりレギュラーを取ってW杯に出た。彼の独特の個性は日本にないもので、世界に通用する選手だった」

鮮明に思い出されるのは、98年から02年まで日本代表監督として指揮を執ったトルシエ元監督時代、フラット3の習得に必死に食らいついていった姿だという。

「トルシエジャパンに最初入ったとき、宮本(恒靖)や森岡(隆三)があのコンセプト(フラット3)でラインを上げ下げしている中、彼だけ最初はそれができず、トルシエに怒られながら黙々と練習を続け、最後はポジションをつかんだこと。あの練習姿が忘れられない」

トルシエ氏とも電話で話したとのことで「トルシエもものすごく残念だと言っていた。ただただびっくりしていた」そうだ。

計り知れないマンパワーとポテンシャルを持ちつつ、どこか不器用で愛嬌のある人柄で、純粋にサッカーに取り組んできた松田氏。田嶋副会長は「日本の選手で長い間代表としてプレーした選手が現役中に亡くなったことはないと思う。今後、JFAとしても何か形になることをするかどうか、考えていく」と結んだ。
(取材・文 矢内由美子)

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