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[連載]被災地からのキックオフ~コバルトーレ女川の奮闘記~(vol.3)=近江GMインタビュー前編=

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今連載はフリーライター佐藤拓也氏の“サッカー復興”へ少しでも力になりたいという使命感からスタート。「多くの人の命、生活が津波によって奪われた中、それでも町のために戦おうとする彼らの姿、その軌跡を、僕は1人のサッカーライターとして追わずにはいられなかった……」

 コバルトーレ女川のGMを務めているのは、震災直後、手書きによる6枚の壁新聞を発行し、世界的に注目を浴びた石巻日日新聞の社長・近江弘一氏である。9月11日放送のTBS「情熱大陸」で同新聞社が取り上げられたことでご存じの方も多いだろう。

 「地域のために生きること」を天命とする近江氏にとって、新聞社とともにコバルトーレも「大事な地域貢献のツール」という考えで運営してきた。その考えがあったからこそ、震災後に町のために活動することができたのである。

 復興に向けて大きなパワーが必要とされる中、コバルトーレはいかに町の中で存在していくのかについて、近江氏に話をうかがった。そして、近江氏のこの言葉からインタビューはスタートした。

「2011年が何事もなく、進んでいたとしたら、もっと難しかったかもしれない」

-それはどういう意味ですか?
「昨年、東北社会人リーグ1部から2部に降格して、いまいちチームのモチベーションが上がってこなかったんですよね。そのなかで、言い方が悪いかもしれませんが、震災があったことで、自分たちの活動や立場を見直すことができたんじゃないかと思うんですよ。本当に芯のある活動をできるようになった感じがしますね」

-クラブの存在意義やプレーする意義を選手たちが感じとったということですね。
「テレビの報道やインタビューの中で、町の人たちがすごくほめてくれたんですよ。普段、町の人たちはあまり口を開かないんですけど、「(コバルトーレは)大事な人たちなんだ」「つながっているんだ」と言ってくれた。その言葉が選手たちの心の支えになったと思います。たぶんうれしかったと思うし、心に響いたと思いますね」

-自分たちの存在価値を確認できたということですね。
「今回の震災で、自分たちを大切にしてくれた人がたくさん亡くなりました。そういう意味で、本当に辛かったと思うんですよ。でも、その言葉を聞いて『頑張ろう』という気持ちになれたんだと思います。今回の件は、人生を左右する大きなことですから、それをバネにしてもらいたい。だから、あらためて僕の方から選手たちに『3年で女川町を元気にするぞ』と、『その旗頭は俺らなんだ』と。そして、『そこに向かって頑張ろう!』という話をしました」

-そういう思いになるまで、どのぐらいかかりましたか?
「来年活動再開することは4月の時点で決めていましたよ。今年は活動を休止するということと同時に決めました。そこで選手たちには3つの選択肢を与えました。『サッカーをするために外に出ること』『今年はサッカーを我慢して町に残ること』、あとは『地域貢献すること』。あとは選手たちの判断に任せました」

-この状況下で運営どころではなくなったと思うんですよ。チーム自体を解散させる選択肢もあったとおもいますが、そうしなかった理由はなんですか?
「コバルトーレのGMを務めたときから『地域貢献』にこれからの人生のすべてを捧げると決めていました。その気持ちは震災があっても変わりませんでした。石巻日日新聞もコバルトーレも地域に貢献するために活動してきましたし、新聞社もサッカークラブもこうあるべきなんだということを伝えてきたつもりです。どっちも僕にとっては地域貢献のツールなんですよ。だから、それをなくすことは僕の人生をなくすことと一緒。クラブを解散させる選択肢なんてハナからありませんでしたね」

-なるほど。元々、コバルトーレはどういった経緯で立ちあげられたのでしょうか?
「元々僕は地域の少年団のコーチをしていたんですよね。そこで地域のクラブを運営してきた人から『石巻地区で地域に密着したクラブをつくろう』という話があって、手伝っていたんです。以前、僕はウエットスーツの会社を経営していて、その縁で女川町によく来ていたんです。その際にいつも『ここにスポーツ施設を作りたいな』と思っていたんですよね。冬は雪が降らないし、夏は涼しいから。それで女川町を拠点に活動することにしたんです。
 その後、もう1人の人は抜け、僕が中心となりました。それで06年、『女川スポーツコミュニティー構想』というプログラムを立ち上げて、スタートしたんですよ。行政から支援を受けられなかったのですが、地元の水産加工会社の『高政』さんが応援してくれると言ってくれて、そこからはじまった感じですね」

-すぐに町の中に溶け込めたのですか?
「最初の1、2年目は厳しかったですね。とにかく地域の人の理解を得られませんでした。『なんでサッカーをしているの?』という感じでしたからね。だから、選手たちが地域で働いて、町民として登録して、一緒に生活している中で徐々に理解を得ていきましたね。そこまでは本当に大変でしたよ。そこからだいぶ浸透していき、スクール活動や幼稚園や保育園への巡回指導など活動を広げ、町に根差すことができるようになりました。だから、発足当時からいる檜垣(篤典)たちは非常に苦労したと思いますよ。だから、震災があっても、ここから離れられないんだと思います」

-震災後のクラブマネジメントで一番大変だったことは何ですか?
「子供たちですよね。学校もいろいろありましたし、親族の方が亡くなられた子供もいました。生きていてもご両親の仕事がなくなって、子供も働かざるを得なくなって、サッカーを辞めてしまったり……。子供の生活環境が変わってしまったことが一番悲しかったですね」

-そうした中で来年はトップチームの活動を再開することはできるのでしょうか?
「やりますよ。絶対にやる! チームとして前に出ていって、これから元気にやっていくんだとアピールしないといけないと思っています。いろんな人の支援を受けましたし、今も支えてくれている人がいるので、『ありがとう、日本』という横断幕を張り出して試合をしたい。そうじゃないと義理が立たないですよ」

-選手を集めることは大変だと思いますが。
「試合をするからには勝たないといけない。高いプライドを持って戦えるチームを作らないといけません。ただ、新加入の選手はサッカーが上手なだけではダメ。女川でプレーするということに意味を見出してくれるような選手がほしいですよね。サッカーを通して復興を目指すのも一つの生き方だと思います。それぐらい気概のある選手に来てもらいたいですね」

-震災から半年が経ちました。世間的に震災が風化されていく雰囲気もあります。その中でコバルトーレが伝えるべきことは何だと思いますか?
「震災を受けて、今、我々は走りだしています。でも、そういうことって、あまり言葉では伝わらないと思うんですよ。9月11日で半年が経ち、そこが一つのターニングポイントとなったかなと思います。震災が風化しないように言葉で伝えるのは地域新聞社の役割だと思っています。サッカーに関しては、とにかく来年プレーしている姿を見せたい。そのために今、いろいろ動いています。来年、選手たちが感謝の気持ちを持ってプレーする。その姿を見せることが、一番伝わるんじゃないかなと思っています」

=後編に続く=

(取材・文 佐藤拓也)

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