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[連載]被災地からのキックオフ~コバルトーレ女川の奮闘記~(vol.5)

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今連載はフリーライター佐藤拓也氏の“サッカー復興”へ少しでも力になりたいという使命感からスタート。「多くの人の命、生活が津波によって奪われた中、それでも町のために戦おうとする彼らの姿、その軌跡を、僕は1人のサッカーライターとして追わずにはいられなかった……」

「必ず女川に帰る!」

 コバルトーレ女川MF滝沢陽介が女川を発ったのは4月17日のことだった。 「とにかくサッカーがしたい気持ちが強かった」。滝沢は断腸の思いで愛する女川を離れ、故郷の埼玉に戻ってきた。

 今は埼玉県社会人1部リーグ・与野蹴魂会に所属し、夜9時から練習を行い、その後深夜の建設現場で働くという日々を過ごしている。だが、それも「すべてはコバルトーレのため」と滝沢は語る。

「必ず来年は女川に戻ります。それは近江弘一GMに伝えていますし、GMからも『戻ってきたときにサッカーができる環境を作って待っている』と言ってもらいました。こうして埼玉でサッカーをしているのも来年コバルトーレでいいプレーをするため。女川に残った選手たちから見るとわがままに捉えられるかもしれないけど、僕としてはコバルトーレのために選んだ道でした。だから、後悔はまったくないです。今、最初に思うのは女川に残っている選手たちに申し訳ないということ。2番目は、純粋にサッカーできる喜び。そして3番目は、来年女川でサッカーできるという待ち遠しさですね」

 滝沢がコバルトーレにやってきたのは、08年のことだった。高校卒業後、九曜クラブ、塩釜FCと渡り歩き、07年はけがでリハビリに1年間費やした。そして、けがが癒え、チームを探していたときに見つけたのがコバルトーレ女川であった。

「最初はただサッカーをするために女川にやってきたという気持ちが強かった」という。しかし、毎日町の人と一緒に仕事し、生活することで町に対しての愛着が沸いてきた。チームの代表として商工会議所の青年部の会員にもなり、町の行事や祭りの手伝いなどを行うと、「周りの人から『俺らも応援しにいかないといけないな』と言ってもらえるようになったんです」(滝沢)。

 昨年のリーグ開幕戦には、約700人もの観客がスタジアムに詰めかけ、チームに声援を送った。「本当に人と人のつながりを感じました。僕だけでなく、選手のみんなが女川の町とともに戦っていきたいと思っていましたよ」と滝沢は語る。

 それまでは「チャンスがあれば、上のレベルで戦ってみたい」と思っていた滝沢だが、町のために戦う意義を知ったことで、昨年の契約更改の場で近江GMにこう訴えかけた。「僕はクラブから『いらない』と言われるまでコバルトーレのユニフォームを着て戦いたい」。それを聞いた近江GMからは「ありがとう」という言葉が返ってきた。

 滝沢にとって、町への思いを強める中で東日本大震災は起きたのだ。震災時、スポンサーである水産加工会社「高政」の工場で働いていた滝沢はすぐに避難したため、津波の被害を受けることはなかった。その日は町の様子を知ることはできなかったが、翌日町に出て見ると、目を覆いたくなるような光景が広がっていた。

「町がなくなっている」。呆然とした。チームメイトとも連絡が取れず、とりあえず向かった避難所で檜垣篤典らチームメイトと再会。チームメイト全員の生存が確認できた。しかし、その後、お世話になった人たちの訃報が次々と飛びこんで来た。身元確認のために遺体を見ると、「どの顔も悔しそうな顔をしていた」(滝沢)という。

「本当に町が戦後の状態になっていました。そういう状況から町を平和にするためにもスポーツの力は必要だと思うんです。悔しい思いをして亡くなった多くの人たちの思いを、サッカーを通してたくさんの人に伝えていくことができるんじゃないかと思うんですよ」。滝沢は語気を強めた。

=次号へ続く=

[写真]MF滝沢陽介。今は埼玉でプレーを磨き、来年は女川に再び戻る決意を示した

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