リポビタンD Presents 中央大サッカー部 それぞれが追いかける夢の物語 リポビタンD Presents 中央大サッカー部 それぞれが追いかける夢の物語

その手に夢がある。中央大のFW矢島輝一(3年=FC東京U-18)、DF渡辺健斗(4年=市立船橋高)、そしてマネージャーを務める垣内優希(3年)。サッカーと生きていくと決めた者、スパイクを脱いだ者、裏方としてチームを支える者。それぞれが金茶のプライドを胸に、理想の自分を描き、夢を抱く。そこには三者三様の夢があった。

FC東京で愛されたい 中央大 FW 矢島輝一(3年=FC東京U-18)

No.01 KIICHI YAJIMA No.01 KIICHI YAJIMA

 古巣への復帰を誓っている。FC東京の下部組織育ちである矢島輝一。トップ昇格は叶わずに中央大へ進学したが、今でもクラブ愛は揺ぎ無い。「プロになるというよりも、FC東京でサッカーがしたいですし、そこで愛されたいというのが一番です」。大学サッカーでは、多くの選手が日々の練習時に先輩などから受け継いだ様々なクラブのウェアを見に着けるが、矢島は「自分はそこはこだわっていて、FC東京以外のエンブレムのものはつけないと決めてやっています。絶対にしないです」と一途な思いを貫いている。

 5歳でサッカーを始め、Jリーグを初観戦したのが小学校低学年時。味の素スタジアムでのFC東京の試合だった。当時の対戦相手などは記憶にないが、今でもあのとき聞いた応援歌は覚えているという。FC東京に魅せられた矢島はこれをきっかけにFC東京のスクールへ通い、FC東京U-15むさし、FC東京U-18とキャリアを重ねていった。高校卒業のタイミングでのトップ昇格は叶わなかったが、進んだ中央大でエースとして頭角を現す。

 その奮闘振りは認められ、大学3年となった2016年にはFC東京の特別指定選手に承認。FC東京U-23の一員として、3月13日に行われたJ3開幕戦・相模原戦(0-1)で先発起用でJデビュー。同20日の第2節・琉球戦(2-3)では途中出場で得点も記録。チームは敗れたが、FC東京U-23のクラブ史上初ゴールとなるメモリアル弾だった。ストライカーは「初ゴールは本当に嬉しくて、しかもJ3のチーム初ゴールというのは歴史的な1号。自分のなかで大きいものがありました」と振り返る。FC東京で“Jデビュー”、そして得点を挙げるという一つの夢が叶った。

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 J3の舞台で得点したことで、トップチームでプレーしたいという思いは強まった。「あのゴールを取ったら、次はJ1で……と強く思いましたし、ユニフォームもU-23とトップは違うので。もうひとつ上のユニフォームを着たいと思いました」。大学の4年間を経ての古巣復帰へ、想いは一段と強まった。大学サッカー最終年である今季にしっかりと結果を残し、自らの足でFC東京入りを勝ち取るつもりでいる。

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 また全日本大学選抜に選ばれている矢島にとっては、今夏に国別大学世界一決定戦・ユニバーシアード競技大会も控えている。まずはメンバーへの生き残りが最優先事項だが、先に見据えるのはユニバ代表の一員としての金メダル獲得。今までのキャリアにおいて、大きなタイトルを手にしたことがないというFWは「大きな大会で優勝したことがなく、それには自分にも責任があると思うので、ここでタイトルを取って、自分自身も変わりたいです。なのでユニバでは絶対に金メダルを取りたい」と力を込めた。

 FC東京で育ってきたストライカーは金メダルを手に古巣への帰還を目指す。それこそが矢島が抱いている夢なのだ。

スパイクを脱ぎ、“感動を与える”新たな世界へ 中央大 DF 渡辺健斗(4年=市立船橋高)

No.02 KENTO WATANABE No.02 KENTO WATANABE

 新たな世界で一歩を踏み出す。市立船橋高では2年時に全国高校選手権優勝も経験した中央大のDF渡辺健斗(4年)は春から社会人生活をスタートさせる。大怪我の果てに卒業とともにスパイクを脱ぎ、胸にあるのは「世の中に感動を与えたい」という想いだ。

 市立船橋高への進学時は、一番下のCチームからのスタートだった。それでも「悔しくて泣きながら走り込みをする日々」を過ごし、徐々にステップアップ。2年時の夏に山口国体で優勝を果たすと、2年生ながらAチームのスタメンに定着。そして冬の選手権では、日本一を経験した。しかし、この選手権で渡辺は自らの運命を分けるシーンに出くわす。Jリーガーという夢が霞んだ瞬間だった。

 国立競技場のピッチやロッカールームで仲間たちが歓喜の涙を流すなか、一学年先輩のFW和泉竜司(現・名古屋)だけは涙していないのを見て、「完敗だなと、この人には勝てないなと思いました」と感じたのだ。

「きっとあの時、和泉さんは選手権の先にJリーガーとしてやっていく姿までイメージしていたんだろうなと思います。自分とのスケールの違いを感じました。僕は高校でスタメンを勝ち取るまで背伸びしてやってきたので、これ以上はもう無理だなと、このとき感じてしまったんです。その後も“プロになりたい”と友達とかと話してはいても、実際のところでは諦めている気持ちがあったのが本当のところです」

 選手権への出場を一心不乱に目指していた高校3年間を経て、大学の4年間は何をモチベーションにしたらいいのか。「目標が分からず、情熱的にサッカーへ打ち込めなくなってしまった」という気持ちの変化をチームメイトに申し訳なく思った。そこで気がついたのが「自分にできるのは人のためにプレーすること」だった。

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「改めて考えると、僕は人の期待や想いとか応援してくれる方とか、試合に使ってくれる監督とかの気持ちを背負ってしまうタイプ。なので、チームのため、僕を頼ってくれる人のためだったら、何でもするというスタンスでやりました。恩を返したいという人がいて、その人のために利己的ではなく、利他的なサッカーがかっこいいとすら思っていたので、試合に使われたときは誰よりも身体を張れたと思っています」

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 自分のためでなく、人のために戦うことを決意。上手くメンタルを切り替えられると、元々実力はあるため、中央大でもトップチームの戦力として定着していった。しかし大学3年の夏に悪夢が襲う。2015年6月13日の関東大学1部リーグ・桐蔭横浜大戦(3-2)。先発した渡辺だったが、前半28分に負傷交代。相手GKと激しく交錯し、頚骨粉砕骨折、半月板断裂およびじん帯損傷をいう大怪我を負ってしまった。

 手術を行い、1か月の入院生活。自宅へ戻ってからも約半年の寝たきり生活を強いられた。それまでサッカー中心で過ごしてきた日々が一変した。できることが限られた生活。自暴自棄になりかけたが、ふと冷静になった。ベッドの上で自分自身を見つめ、新たなチャレンジをしようと腹を括った。

「今までサッカーしかしてこなかったので、人生のキャリアに対する焦りがあって。今まで本気で目の前のことに取り組んだ結果、大きなリターンを得たという成功体験があったので、それは他のジャンルにも応用できると自分で実験したくて、勉強をめちゃくちゃしました。ちょうど就職活動をする時期だったので、1日15時間ほど勉強をしていましたね」

 自宅でひたすらにビジネス書を中心に読み、証券マンの父の影響で株式投資もするなど、様々な知識をスポンジのように吸収していった。「怪我をしてから今までで350冊以上は本を読みました。新たな世界で輝ける自分にしたいと思って頑張ったというか。勉強したことはほどんどなかったのですが、もう本気になるしかなかったんです。被害者面しているのは生き方としてかっこ悪いなと思ったので」。読書を進め、様々な業界を俯瞰して見ていくなかで、やりたいことの輪郭が段々とはっきりしていった。

 そして思い出したのは、高校時代に日本一を経験したとき、『SNS』を通じて知らない人から2000件以上のメッセージが入っていたことだった。「市船のプレーに勇気をもらいました」「あのプレーに勇気をもらい、大事な決断ができました」「僕もサッカーを始めます」。もらった言葉を思い出し、芽生えた気持ちは「僕も世の中に感動を与えたい」というものだった。「今まではサッカーの世界のなかだけで生きてきましたけど、あのときは外の世界の人からも言葉をかけてもらったんです。あの時のように、より広い世界へ感動を与えたい。そういう事業を起こしたいなと感じました」。辛酸舐めて、原点へ回帰すると新たな夢が生まれた。

 就職活動を経て、渡辺は目指していた大手IT企業への就職を内定させた。春からは人へ感動を与えるべく、新規事業立ち上げの仕事へ打ち込む。サッカーを通して与えた感動。今度は社会人として、より広いフィールドの人々の心を動かす。

夢は形を変えた、人を想う行動は自分の喜びに 中央大 マネージャー 垣内優希(3年)

No.03 YUKI KAKIUCHI No.03 YUKI KAKIUCHI

 選手としてスポーツに打ち込んできたが、今はマネージャーとしてチームを支えている。中央大でマネージャーを務める垣内優希(3年)は、小学校から高校までバスケットボールに打ち込んできた。中学と高校ではキャプテンも務め、「毎日毎日、部活をやってきた」という。

 大学へ進学し、サークルも見学したが「週に3回ほどの練習で“全力でやっています!”と言われてもピンと来なかったんです。なのでそこでやるなら部活動に入って、毎日やりたいなと思いました」と決断。知り合いからラグビー部のマネージャーに誘われたが、他運動部を見学して回るなか、「何か感覚的なもので。サッカー部がいいなと感じたんです」と笑顔で振り返る。それが中央大サッカー部と垣内の出会いだった。

 マネージャーとしてのおもな仕事は、練習参加と事務仕事。グラウンドでは水を汲んだり、選手が脱いだジャージをたたんだり、時にボールを拾ったり、裏方としての仕事に明け暮れる。選手としての経験が活きているのかと思いきや、「マネージャーの先輩も後輩も、元々マネージャーをやっていた人たちがいたので。そういう人に比べれば、何をやればいいか最初はわからずに大変でした」と言う。立場が変わり、日々が学びの場だった。

No.03 YUKI KAKIUCHI

 プレイヤー時代は、コートの上で自ら仲間を引っ張ることができたが、今はピッチの横であるいは裏で見守るしかできない。試合を見ているときには、“もどかしさ”があるようで、「『なんで決めないの?』とか『そこ、絶対にもうちょっと一所懸命走れば、追いついたでしょ』とか、すっごい思います。向こうからしたら、『うるせえ、マネージャー』という感じだと思いますけど。本当に思ってしまいますよね」と笑って話すとおりだ。

No.03 YUKI KAKIUCHI

 そんな“もどかしさ”が「選手の側としてやってきたこととマネージャーとで一番違うし、苦しいなとは思うんです」と言うが、勝った時の喜びの大きさを思えば、そんなものは苦ではない。「本当にマネージャーは楽しいです。みんないい人たちなので」と仲間を誇った。

 大学進学前から中学校の教員を目指していたが、マネージャーをするなかで世界が広がり、ものの見え方も変化。夢の形も変わった。今では教員ではなく、「誰かのために何かをやって、それが結果として自分の喜びになる。そういう仕事につけたらいいなと思っています」と声を弾ませる。今は就職活動の真っ最中。業種や業界は模索中だが、「マネージャーをやってきて、人のためにやっていることが結果的に自分のためになっていると気がついたんです」と言い、新たなステージへ目を向けている。

三者三様の『リポビタンD』 三者三様の『リポビタンD』

 夢の形が三者三様であるように、『リポビタンD』へのイメージもそれぞれが違うものを持つ。矢島は、FC東京U-18に所属していた高校時代。いつも授業後の練習前の時間帯にコンビニに寄り、リポビタンDを買っていたという。「『これを飲んで、練習も頑張ろう!』と気合いを入れていましたね」と懐かしむ。また垣内は幼少期にかぜをひいたとき、いつも母が子ども用のリポビタンDを飲ませてくれていたそうで、「なんだか特別感があるものですよね」と目を細めた。大人になってからより身近に感じているのが渡辺。「高校や大学時代は部活で疲れたときなどでしたけど、今はバーテンダーのアルバイトもしているので。タウリンを摂ろうと思って、リポビタンDを飲んでいます。」と笑う。夢を追うそれぞれの思い出にリポビタンDが寄り添っている。

リポビタンD 指定医薬部外品

肉体疲労時の栄養補給、滋養強壮

15才以上1日1回1本(100mL)

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