beacon

「生きているだけで幸せ」…試合中の大事故から復活、C大阪から長崎へ移った永井

このエントリーをはてなブックマークに追加

「生きてるだけで幸せと言うか、サッカーができる幸せを噛みしめながらやれるようになりました。今までは正直、淡々とやっている部分もありました。今はノビノビやれていると思います」

 生死を分けるほどの大事故だった。昨年8月29日の天皇杯1回戦、当時セレッソ大阪に在籍したFW永井龍(24)は、JFLのFC大阪との一戦に先発出場した。大分からレンタル復帰したばかりの永井は、その試合が復帰後初先発。結果を出そうと燃えていた。

 しかしC大阪は格下相手に苦戦を強いられた。前半だけで2点のリードを奪われる苦しい展開。そして後半25分、永井にアクシデントが襲う。コンタクトプレーで相手のひじが永井の左腹部に入る。悶絶した永井だが、交代枠を使い切っていたこともあり、何とか試合に復帰。「その時はやるしかないとアドレナリンが出ていたと思います」。永井はフル出場した。同29分にはこぼれ球を押し込み1点を返したが、勝利に導くことは出来なかった。

 異常が表れるまで時間はかからなかった。試合後、ベンチ裏に引き上げた永井の顔面は真っ青。唇も真紫に変色していた。異変は誰が見ても分かる状態で、永井は病院に緊急搬送された。診断の結果は左腎臓の損傷。CT写真ではトラック事故で亡くなる人と同じ衝撃だったことが確認されたという。医師からは「『よく生きていた』と言われました」。

 永井はもともと、怪我が多いタイプの選手だった。セレッソ大阪ジュニアユースに入団したばかりのころ、試合中に相手選手と接触して小腸破裂の大怪我を負った。「がむしゃらにやるタイプなので。球際でガツッと行かれてという部分があるんです」。ただそれによって永井のプレースタイルが変わるわけではなく、がむしゃらさは持ち味として現在もJリーガー永井の特長となっている。

 リハビリは長期に及んだ。1週間の集中治療室での治療、そして約1か月の入院生活を余儀なくされた。生死を彷徨ったと宣告され、精神的にも不安定な時期が続いた。ただそこで支えてくれたのが当時お付き合いをしていた女性だった。同棲していた兵庫県内から1時間半をかけて毎日、入院先まで駆けつけ、永井の看病を続けた。永井はようやくジョギングが出来る程度まで回復した12月に結婚を決意した。

 そんな永井を熱心に誘ってくれるクラブがあった。ジョギングを始めたばかりで、いつ試合に復帰できるか分からない状態の永井にV・ファーレン長崎から完全移籍のオファーが届いたのだ。永井の心は揺れたが、ジュニアユースから在籍したC大阪を離れることを決断。監督が現役時代アジアの大砲と呼ばれた日本サッカー史上でも屈指のストライカーである高木琢也監督だったこと、そして丹治祥庸強化部長の熱さが決め手になった。「いい意味でも悪い意味でも保険になっていたセレッソをレンタルでなく完全で離れることが大きいと思った」と強い決意を持って、新天地にやってきた。

「コンディションはもう大丈夫です。始動した時はキツかったんですけど、試合にも慣れてきました。チームがオフ明けでも走るチームなので、それもプラスになったのかなと思います。コンディションが上がっているので、今はいい感じにやれてると思います」

 2010年にC大阪のトップチームに昇格した永井は、1学年上に日本代表MF山口蛍(ハノーファー)、同期のMF扇原貴宏らよりも早く、試合に出場した。12年からはオーストラリアAリーグのパース・グローリーFCにレンタル移籍し、海外リーグも経験した。しかし現時点では「追い越されてしまった」という意識も強いと話す。

「これから活かさないと、海外に行った意味もなくなる。チャンスを決めきるか決めないかで自分の人生も変わってくると思う。そして彼らを追い上げていかないといけない。今はJ2ですけど、頑張りたいなと思います」

 長崎は今季は開幕戦を白星で飾ったものの、そのあとは勝ちがない状況が続いている。全試合で先発出場する永井も責任を感じている。「全部自分が背負っているわけではないですけど、自分が点を取らないと勝てないと思っている。もっと点を取れるようにしたい」。先を越されたライバル達と同じ舞台に立つためにも、今は長崎で結果を残すことしか考えていない。

(取材・文 児玉幸洋)

TOP