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石垣島から目指した全国…八重山商工FW下里幸生は恩師、仲間と過ごした時間を“誇り”に大学サッカーで夢の続きへ

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八重山商工FW下里幸生

[10.30 高校選手権沖縄県予選準決勝 八重山商工高 3-3(PK4-5)西原高 タピック県総ひやごんスタジアム]

 今大会、快進撃を見せた八重山商工高は準決勝、前年度覇者の西原高を相手に善戦もPK戦の末に敗れた。準決勝の翌日、地元石垣島の新聞紙は彼らの健闘を一面で報じた。敗れはしたものの、前年度覇者を相手にPK戦まで演じ、胸を張って応援席にあいさつする一人ひとりの面々は清々しかった。

 沖縄本島からさらに南下し、約410kmのところにある石垣島。島内には3つの高校があり、その一つが八重山商工である。その名前を聞いたとき、野球を連想する方が多いかもしれない。2006(平成18)年に春夏甲子園に出場。近年は東京五輪代表のもなった埼玉西武ライオンズの平良海馬投手を輩出するなど野球が盛んな高校である。その一方でサッカーは部員数が集まらず、一時期廃部寸前に追い込まれることもあった。

 しかし、今年主力の3年生が小学生の時から指導を受けていた山本努氏が監督に就任。かつて桐生一(群馬)で全国を目指し、その後美容師となった指揮者は、ふと訪れた石垣島に魅力を感じて移住した。自分の店を開き、自由な生活を求めていたなか、子どもたちがボールを蹴る姿を見て体がうずき、いつしかサッカーの楽しさを教える伝道師となっていた。

 子どもたちにとってもその日常が楽しく、そのイキイキとした姿を間近で見る親たちもサッカーに引き込まれていった。経営する美容院はサッカーファミリーのコミュニティーの場となり、高校に行ってもサッカーを続けたい子どもたちと親の願いを聞き入れ、外部指導者として山本監督が就いた。

 離島の高校は先生の任期が最長3年程度とされている。すぐに転勤してしまう監督の下だとなかなかチーム力は高まらなかったが、外部指導者であれば学校側が許可し続けるまで監督を続けることができる。それは、部活動の指導を地域に委ねる必要性を感じていた仲山久美子校長の存在も大きかった。学校側が理解し、協力体制が整っていたからこそ山本監督は弊害なく指導に集中できたと話す。

 八重山商工に集ったメンバーのほとんどが小学生の頃、山本監督の下で指導を受けたことのある選手。そこで実力を高め、中学時代には地元のクラブチーム「FC琉球石垣」に進んだ選手もいる。そのうちの一人が今回、八重山商工で背番号9を背負ったFW下里幸生である。
 
 14年にFC琉球でプレーし、現在FC琉球石垣の古賀鯨太朗監督の師事を受けてスキルを伸ばしてきた。沖縄本島への遠征時にJリーグを戦うFC琉球の選手たちの姿を見てプロに憧れた下里。しかしサッカー強豪校への進学を目指し、高校受験するも挫折。思い通りにいかず、夢も正直諦めかけた。ただ、仲間たちが集う八重山商工へ入り、なおかつ小学時代からの恩師の存在は彼にとって心強かった以外の何ものでもない。

「もうサッカーを辞めようと思ってました。でも監督からも仲間からも、みんながやろうって言ってくれて。それがあるから気持ち切らさずの3年間サッカーに打ち込めたと思います」(下里)。

 少数精鋭のチームは、1年の頃から試合に出られるチャンスを与えられ経験を積んだ。いつしか下里の身長は182cmまで伸び、チームに欠かせないFWへと成長。「信頼されていることが心地よかった」と話す彼は、くさび役として二列目の攻撃を促せば、自らゴールを狙うハンターとしての存在感も見せ、新人戦9得点のFW与那原鳳翔とのツートップは県内で強烈なインパクトを残した。

 選手権県大会が始まる2ヶ月前、下里は左太もも裏を負傷。3回戦のKBC未来戦が彼の初陣となった。全快とはいかず、それでも試合に出たいという思いが高ぶりすぎてゴールが生まれず、ストライカーとしての役割を果たせないまま歯がゆい思いをしてきた。

 それでも仲間たちが団結し、準決勝の晴れ舞台まで連れていってくれた。中学の頃、プロへの憧れを抱いた地「タピック県総ひやごんスタジアム」が準決勝の舞台。相手は前年度の県選手権の覇者・西原高。山本監督から先発を言い渡された下里は「みんなのために」という思いで最前線に立ち、くさびとなってチームを引っ張った。

 試合は、与那原がゴールを決め八重山商工が先手を打つと、前半終了間際に西原の比嘉琥生が同点弾を放つ。後半、宇座涼太のゴールで西原が一時勝ち越すも終盤に粟盛優雅がイーブンにして延長戦に突入した。前後半10分ずつで、次の1点が勝負を決めそうな展開。そして延長前半8分、下里の足元にゴールが渡る。「常にゴールの位置は頭に入れていて、ボールが来た時はゴールを見ずに打ちました」と、下里が振り切った右足シュートは風に乗って約20m先の西原ゴールに突き刺さり、どよめきと歓声が入り交じる空間で彼は「どうだ!」と言わんばかりに両手を広げるゴールセレブレーションを見せた。

「今まで試合に出られず本当に決めたかったし、それはここまで連れてきてくれたチームメイトや、支えてくれた家族のために全国へ行きたかった思いが形になったと思います。僕の中でこの3年間で一番のゴールだし、でも負けたので一番悔しいゴールにもなりました」。(下里)

「もっと一緒にサッカーがしたかったな」。試合後、そうつぶやいた山本監督は頬を濡らす。それは選手も同じ。「本当に個性派集団でふざけてるやつもいたけど、やるときはみんなひとつになって集中してボールを蹴り合っていた。もっと自分が点を取っていれば……ずっと仲間たちとサッカーがしたかったです」と話す下里は卒業後、大学に進学しサッカーを続けるという。

「みんなのためにもプロになりたいとメッチャ思いました」と、全国への扉は開けなかったものの、八重山商工でプレーしたことを誇りに、抱いた夢の続きを見せたいというエースの自覚はこれから石垣島の人たち、そしてサッカー少年の希望となるかもしれない。脚光を浴びた八重山商工。その名は間違いなく今年の沖縄サッカー界において新たな1ページを記したとともに、停滞していたその世界にセンセーショナルな風を巻き起こした。

(取材・文 仲本兼進)
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