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JFA田嶋幸三会長、退任会見で任期8年間を回顧「森保監督を信じて戦った」「院政を敷くつもりは一切ない」

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宮本恒靖新会長にバトンを受け継いだ田嶋幸三会長(写真右)

 日本サッカー協会(JFA)は23日、東京都内のJFAハウスで定時評議委員会と臨時理事会を開き、元日本代表DFの宮本恒靖氏が第15代会長に就任することが正式に決まった。同日、退任が決まった田嶋幸三会長が記者会見に出席し、任期8年間を振り返りながら宮本新会長へのエールを送った。

 以下、田嶋会長の退任記者会見要旨。

●田嶋幸三会長
「8年間お世話になりました。私は2016年に会長に選任され、災害も含めていろんなことがあった。特に僕は代表チームが強くなければならないといけないということをずっと言ってきた。自分が技術畑にあり、指導者養成をしてきたこともあったので、そのことを言い続けてきた。2018年のW杯では2か月前にハリルホジッチさんと西野さんを交代した。普通ではありえないことをやることとなった。それはやはり代表チームが絶対に勝たないといけない、強い代表チームでなくてはならないと信念のもと、決断したことであった。そして西野監督を信じ、サポートしてきた結果、(初戦で)コロンビアに勝ち、(ラウンド16で)ベルギーに良い勝負をしてくれたことは西野監督以下、選手たちに感謝したい。あそこで負けていたら自分は今ここにいないし、もっと前に去っていたと思う。

 その後、東京五輪代表に森保監督を決めた時には、『ハリルホジッチさんの後は森保監督が代表チームの監督だ』ということを決めていた。それは西野さんと技術委員長と話し合って決めた。(ロシアW杯では)西野さんの継続論も多くの方から出ていたが、東京五輪の監督を決める時にロシアの後は次が森保監督だと決めていた。これは今だから話していもいいと思うが、西野さんの継続は考えながらも、西野さんと自身と話をしてそのようなことになったのはよく覚えている。

 森保監督は東京五輪ではベスト4に入りながらメダルを取れなかった。選手たちは言えないかもしれないが、自分はメダルを取れる実力があるチームだったと思っている。できることなら有観客でやらせてあげたかったのが本音。負け惜しみと捉えられるかもしれないがそう思っている。その2週間後、代表が招集され、(W杯最終予選の)オマーン戦に臨んだが、(東京五輪で)6試合フルに戦った選手がかなりの人数いて、オマーンを甘く見ることはなかったが、1-2で敗れる結果になった。その後に中国に勝ったが、サウジアラビアに敗れ、これ以上はというところまで追い詰められた。その中でも森保監督をサポートし、森保監督を信じ、予選を一緒になって戦った。コロナ禍ではあったが、彼をサポートしてきた。これは彼の友人であるからとか、好きだからとかでやってきたわけではない。もっとふさわしい人がいるなら代えたかもしれないが、本当に日本代表を強くするためには、これは森保監督自身にも伝えたが、一番ふさわしいのが彼であるという信念のもと、彼に継続して監督をずっとやってもらった。その結果、カタールW杯で素晴らしい結果を出してくれたことに本当に感謝している。

 自分は1968年に西ドイツの留学から帰って来て、ありがたいことに(当時、FIFAコーチングスクールでクラマー氏の助手を務めた)平木隆三さんから抜擢され、約20年近くボランティアで日本協会で関わってきた。指導者養成や育成で多くの経験をさせていただいた。83年から86年にケルンスポーツ大学で勉強している頃は、私のような青雲の志を持った学生が20人近くいた。そういう方たちと毎晩、ビールを飲みながら日本サッカーについて語っていた頃は、自分たちの目の黒いうちはドイツに勝てないだろうなと会話をしたのを覚えている。公式戦で1回勝っただけだからドイツより強くなったとは言えないが、W杯の公式戦で勝ったというのは、自分がやってきたことの中では非常に感慨深いものであった。

 私は47都道府県を重視してきた。日本サッカー協会の成り立ち、歴史からして47都道府県が非常に重要で、47都道府県が自立していくことはマーケティングであったり、人口減少であったり、そういう状況のなかで簡単ではないとよくわかっていた。その当時、補助金が東京、大阪、神奈川の補助金を小さな県に回す制度にしていたのを8年前、75%はその地域に回そうと考えた。東京や大阪、神奈川、埼玉、千葉のようなところは人口も多く、お金もかかる。そういうところにも回す改革をした。また各都道府県に1人、選任指導者を置き、その費用を持つことも実行した。こうしたベースをしっかりやってきたことをサッカー協会は忘れてはならないと思う。まず代表チームをしっかり強くしていくこと、基盤となる47FA・各種連盟を支えることです。

 Jリーグ、Jクラブは独立した機関であり、しっかりした理念で活動してくれている。私はずっと20年来、シーズン制のことを議論していたが、気候変動の問題であったり、Jリーグの多くの選手がヨーロッパに行くという様々な変化がある中、昨年、野々村(芳和)チェアマンがシーズン移行を決定してくれた。彼のリーダーシップに感謝している。やはり20年を超える期間、ずっと議論してきたことは健全な方向だったと思っている。その議論があったからこそ、スムーズにシーズン制を変えようという結論に至ったと考えている。そういう意味で日本代表だけが世界に挑むのではなく、昨季は浦和レッズがACLで優勝し、クラブW杯でマンチェスター・Cと戦ってくれた。いまは横浜F・マリノスがACL準々決勝まで残っている。そうした日本のクラブが世界に伍して戦う時代にもっとならないといけない。これからクラブW杯の出場クラブが増えるが、そうしたR・マドリー、マンチェスター・U、アーセナル、バイエルンが出るような大会にもっと日本のクラブが出るようにならないといけないと思っている。

 任期中にはWEリーグを立ち上げた。ちょうどコロナ禍で賛否があった。女子のプロリーグで成功しているところはほとんどない。プレミアリーグの女子は莫大なプレミアリーグの収入に支えられて女子がある。独立してWEリーグを運営できるかというと、そう簡単ではない。女子のサッカーをしっかり支えていくことは、JFAのみならずJリーグも含めて、多くのところでやっていかないといけないし、女子のサッカーを発展させることは、日本サッカー、男子のサッカーにも通ずると思っている。そのことは今後も続けていってほしいと思っている。

 そしてインターハイの固定開催も始めた。これはJヴィレッジで行うことになるが、福島の復興を我々は全面的にサポートしていきたいと考えている。その象徴になるのはJヴィレッジの復興だと思っている。Jヴィレッジは1997年、当時ヨーロッパに拠点がたくさんあったものを真似て日本も作ろうと考えた。最初はハードの面が中心だった。そこにアカデミーができ、クリニックができ、世界に誇れる一人前のフットボールセンターになったと思っている。2011年の東日本大震災によってサッカーではない目的で使われるようになったが、それは当時は仕方ないことだった。それが復興され、アカデミー女子が帰還し、全てが元に戻り、むしろその時以上に室内のサッカー場であったりクリニックが充実している。そこを中心に発展させなければいけないと思っている。

 そして大仁(邦彌)会長の時に代表チームを中心とするフットボールセンター(現・高円宮記念JFA夢フィールド)を作ろうということで決定し、我々がお金を積み立ててきた。幕張にその場所を決め、作るにあたっては40数億円を使い、代表チームだけが使うというところの議論はあったが、作って本当に良かったと思っている。あれがなかったらカタールW杯予選を突破できたか、僕は疑問だと思っている。あそこでリカバリーすること、あそこで準備すること、その中にはヨーロッパの一流クラブで備えられているような施設がある。またこれはプライスレスだと思うが、日本代表の森保チームのスタッフも、池田太の女子チームのスタッフも、フットサルも、ビーチも、ユースの育成のコーチもあそこに集って常に話し合いができる、そしてレフェリーもいる。そういう環境があることが日本のサッカーが発展していく原動力になると思っている。

 ありがたいことにこの8年間、これから負けることもあるかもしれないが、日本はすべてのW杯で予選を突破し、本大会に出場してきた。男女(A代表)、五輪、フットサル、ビーチ、U-20、U-17。その中で唯一、アルゼンチンの大会(昨年のU-20W杯)だけは1次リーグで敗れてしまったが、あとは全てトーナメントに残っている。このようなことを30年前、40年前に想像できましたか。W杯に出ること、予選を突破することにいっぱいいっぱいだった日本。それが全て予選に勝ち、トーナメントにも出るようになった。これは世界でも類を見ないと思っている。たとえばドイツだってビーチ、フットサルがそれほど強いわけではない。ブラジルくらいかもしれない。我々はそういった総合的なサッカーの発展に尽くしてきたことを忘れてはならないと思っている。

 私の任期の半分はコロナの時代だった。100年に一度、しかも私が真っ先にかかった。そういう意味では『サッカー界から次に出ても心配ないな』というふうにできたんじゃないかなと思っています(苦笑)。自分が入院中に考えたのは、コロナの中で部活動ができない、サッカースクールができない、Jリーグもみんな試合が止まった中、絶対にサッカーの火を消してはならないということだった。47FA、チーム、スクールを潰してはならないということ、そして代表強化を止めてはならないとこと。代表強化は21年の10月、11月は(日本国内の選手が海外渡航措置の対象とされたため)いち早くヨーロッパでプレーしている選手だけで行った。ヨーロッパでプレーしている選手がGKはじめ、CBから全部いるということ自体、日本のサッカーが変わった証だと思うが、それをしっかり4試合できた。またクラブやスクールを救うための5億円の融資を20年の5月の連休明けにすぐに行えたことは日本サッカー強化への地力がついてきたということだと思う。

 コロナ禍で良い決断ができたのは、ここ(新JFAハウス)に移ってくる決断ができたこともそうだった。2002年のレガシーとして悲願の自社ビルを持つということでJFAハウスを持ったが、コロナによって空きが多くなったことで売却をする決断ができた。これはたまたまだが、コロナ禍で蓄えてくださっていた予算を使った結果、不動産の価値が上がっていた時期だったので、それを埋めて余りあるお金が入ってきた。そして30年を超えるあのビルの維持管理費と同じくらいでこういうビルに入れた。身軽になれて良かったと思っている。今後はどうなるかは次の世代の方が決めることだが、コロナ禍があった中で良かった面もあったと思っている。

 ただ残念ながら自分がやりたかったけどできなかったことがある。それはガバナンスのこと。ゼロトレランスで暴力や暴言をなくしたいと進めてきたが、残念ながらそれはまだ残っている。ただ、それも我々がそういうものをしっかりと監視して、なくそうという努力をしているから出てきていると思っている。膿は出し切りたいと思っているし、今後もそれはやっていきたい。また2021年に100周年を迎えたが、100周年事業のために蓄えていたお金でFIFA総会を日本で開催しようとしていたが、それを開催できなかったことは残念なことであった。

 それでも新理事会はスポーツガバナンスコードを全て満たしている。また理事の人数が半数になった。そしてシーズン制が変わった。様々なことを変革をしてきた。これは大革命です。ただそうした改革、革命には反発が出てくるもの。面白くない人もいるはず。でもこういう時には怯むことなく、前に進めていく必要がある。

 自分は昭和のやり方でやってきた。根回ししたり、よく酒を飲んだりしてきた。でも次の新会長はそういう形で決めるものではないと思っている。そういうことをやってくれる宮本新会長だと思っている。私は58歳で会長になった。数ヶ月後、ある会社から取材を受けて『あと10年若かったらもっといろんなことができた』と言った。10年若かったら、ちょうど宮本新会長の歳(47歳)になる。思い切ったことをやってほしいし、失敗もあるかもしれない。でも今までやめられなかったことを、もしかしたらやめられるかもしれない。改革を進めてほしい。次の100年をどうするかを目指してほしい。失敗をしたなら改善すればいい。ここはトヨタ自動車ビルで改善(カイゼン)のメッカ。どんどん改善をして、良いものにしてほしい。私は院政を敷くつもりは一切ない。彼らが新たなものに挑戦し、次の100年に向けてしっかり運営していくところを応援していければと思っている。あらためて8年間、お世話になりました。ボランティアの時代から含めて30数年間にわたってサッカー界に関われたことを幸せに思うし、皆さんに感謝申し上げたい」

(取材・文 竹内達也)
竹内達也
Text by 竹内達也

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