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[J内定者の声]福岡大MF井上健太「大分を選んで正解だと思った」横浜→島根→福岡で歩んだ異例のキャリアに迫る

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福岡大MF井上健太は今季、J1大分で「二足のわらじ」を目指す

 大分トリニータへの加入が内定している福岡大MF井上健太は現在、クラブの寮に泊まり込みながら練習参加を続け、J1リーグ戦の開幕をいまかいまかと待っている。「二足のわらじでどちらも活躍し、どちらでも必要とされる選手になりたい」。ロールモデルは2018年のMF相馬勇紀(早稲田大→名古屋)。背番号も同じ47番を選択し、大学サッカー界を代表して戦う覚悟だ。

 爆発的なスピードを武器に持つ21歳は、いかにしてプロ入りの夢を実現させたのか。7年前にスタンドから見つめたインカレ(全日本大学選手権)決勝戦の景色、突然の出会いが導いた異例のキャリア、大学生活での挫折と救いの手、大分で感じたプロサッカー界の凄み——。『ゲキサカ』では電話インタビューを行い、これまでの22年間を生の「声」で振り返ってもらった。

◆サッカーにのめり込んだ幼少期〜大崎SC
 直近のキャリアは島根県の名門・立正大淞南高から九州の絶対王者・福岡大。西日本のサッカー界でステップアップを続けてきた井上だが、生まれ育ったのは東日本の大都市・横浜だった。サッカーを始めたのは小学1年生の時。4つ年上の兄から影響を受け、市内南部の磯子区・金沢区で活動する『大崎サッカークラブ』に入団した。

「ブロック予選すらなかなか勝てなくて、県の中央大会にも行けなくて弱かったです」。井上自身はそう振り返るが、当時の神奈川県は少年サッカーの最激戦区。6年時は県勢のバディーSCが全日本少年サッカー大会(全少)で初出場日本一に輝き、横浜FMや川崎Fの育成組織でさえ一発勝負のブロック大会を勝ち抜くのは難しいという環境だった。

 そうした中、井上は県選抜にも選出されていたが、周囲のレベルに圧倒されていたという。「田中碧(川崎F)はやっぱりうまかったし、高木友也(法政大→横浜FC内定)もバディーだったので覚えています。左利きでパワフルで。あと渡辺力樹(日本体育大/当時の史上最多記録で全少得点王)はハンパなかったです。ぶっちぎられてました(苦笑)」。

 とはいえ、自身の武器である爆発的なスピードは幼少期から磨かれていた。両親は学生時代に陸上競技に励んだというアスリート家系。高校教師の父が指導している陸上クラブのトレーニングに付き添いで参加していたという。「ただ、練習に行ってもほとんどボールを蹴っていることが多くて……(笑)」とサッカーの魅力には抗えなかったとのことだが。

 またそんな父からは「靴はとても大事だからちゃんとした靴を履いたほうがいい」という教えを伝授され、いまも心に留めている。「小さい頃はあまり考えたことなかったけど、いま考えると足を速くしようとしていたんじゃないかなって思っています。いまのスピードはその教えがあるのかもしれないですね」。その快足は10年後、プロ入りの夢を導く大きな武器となった。

2018年のインカレ

◆成長の礎を築いた中学時代〜横浜ジュニオールSC
 小学校卒業という節目を迎え、Jクラブのアカデミー組織に進む選択肢もあった中、井上は戸塚区を拠点とする『横浜ジュニオールサッカークラブ』を選んだ。ドリブルを中心としたテクニックやアイデアにフォーカスし、個人能力の育成を重視する関東では広く名の知られた強豪街クラブだ。

 この選択の背景には、父からの助言があったという。「父が高校の先生だったので進路について詳しく、個人を伸ばす形でやっていることと、進学先の高校を見て『こういうチームがいいんじゃないか』と言ってくれた」。また井上自身も「小学校のチームとも対戦していたんですが、結構強かったので印象的でした」と前向きな印象を持っていた。

 結果、この決断が正解だった。井上にとって横浜ジュニオールSCは「僕という人間を育ててくれた大好きなクラブ」というほどの存在。身体の成長が遅かったこともあり、当時を「伸び悩んでいて、潰されることが本当に多かった」と振り返るが、「ちょこまかした、まさに小僧って感じ」の自身を育ててくれたことに大きな感謝の思いを持っている。

 また中2の冬には、人生の一大転機があった。2013年1月6日に旧国立競技場で行われた全日本大学サッカー選手権大会の決勝戦をチームメートと見に行っていた時のこと。対戦カードは早稲田大対福岡大。早稲田大はDF三竿雄斗(大分)、FW富山貴光(大宮)、福岡大ではMF清武功暉(徳島)、DF岸田翔平(水戸)らが出場しており、後のJリーガーが多数名を連ねていた。

 もっとも、当時の井上を刺激したのは「ブランドがすごくて憧れていた」という早稲田大でも、のちに進学することになる福岡大でもなかった。「たまたま国立競技場のトイレで会って、オーラとか目力とかがハンパなくてすごかった」という、立正大淞南の南健司監督との偶然の出会いだ。

「国立に出た代であったり、攻撃力が高くてすごいと思っていた」という2010年度大会の記憶もあったが、ここで出会いがどんなサッカー環境にも勝るほど「ビビッときた」。当時は卒業後の進学先として流通経済大柏高、市立船橋高、静岡学園高などに憧れを抱いていたそうだが、遠く島根県に次なるキャリアを求める異例の決断に踏み切った。

2016年のプリンスリーグ中国

◆才能が開花した高校時代〜立正大淞南高
 高校入学後、井上にとって大きなターニングポイントとなったのは高2の冬。食事の努力を重ねたことで遅咲きだった身体が徐々に完成し、中学時代に「伸び悩んでいた」というスピードが再び開花した。もっとも、最初は身体の成長がもたらすプレー感覚の変化に対応できず、新たな悩みが芽生え始めていたのだという。

 当時、立正大淞南は高校選手権の県決勝で4年ぶりに敗れ、すでに新チームに移行済み。井上は最高学年となったが、ここからというところでBチーム行きを宣告されることになった。「自分の力量とかボールの感覚が合わなくなって、トラップの感覚が全然違っていました」。成長期にはよくある現象であっても、当事者にとっては深刻な悩みだ。

 ここで支えとなったのは、恩師の南監督がコーチに伝えた言葉だったという。「いまあいつは身体が変わったからズレでうまくプレーできてないけど、それはマイナスなことじゃない」。この言葉をコーチから伝え聞いた井上は自らに矢印を向け、降格の屈辱を自身の身体と向き合う契機とした。その結果、新シーズンからはパワーアップした姿でAチームに戻ることになった。

 そんな井上がプロ入りを意識し始めたのは高3の夏。全国高校総体の2回戦で青森山田高と対戦し、すでに千葉加入が内定していたMF高橋壱晟(千葉)とのマッチアップを通じて、自らのレベルを知った。「素晴らしい選手だったけど、自分の武器のスピードとドリブルは通用した。自分の年代で一番のMFと比べて自分がこれくらいだと知ることができた」。大会後にはJクラブの練習参加も勧められ、その夢は徐々に現実のものとなっていった。

 ところが当時、井上はすでに大学進学の方針を固めており、Jクラブからの正式なオファーが届くこともなかった。「自分のプレー集とかも送っていたので、本当に欲しかったら欲しいと言ってくれていたと思うんですが、自分自身のプレーもダメだったんだと思います」。熱心に誘ってくれた福岡大への進学を決断し、冬の高校選手権に臨むことになった。

2016年度の全国高校選手権(写真協力『高校サッカー年鑑』)

 しかしながら、高校生活最後にして最大の晴れ舞台は「いまでも後悔している試合」となった。全国高校選手権1回戦の正智深谷戦、立正大淞南は井上と共に福岡大に進学したFW梅木翼(山口内定)のゴールで先制したものの、後半の落ち着きが欲しい時間帯に連続失点。そのまま1-2で敗退が決定し、年をまたぐことなく高校サッカー生活が幕を閉じた。

「選手権に絶対に出たいと思って淞南に行ったので、ピッチに入った時は『これか』というのがあった。でも、本当にあっという間に終わってしまった。もっと準備をしておけばよかったなとも思うし、人生で一番後悔している試合かもしれないです」。

「チームとしてのまとまりもそうだし、自分の個人的なプレーでもそう。Jリーグからも声がかかって手応えもあったのに、勝たせられる選手じゃなかった。相手からしても『井上健太』というイメージはないと思うし、もっと個人名が上がるくらいの活躍をしないと上には行けない。ちょっといいだけじゃダメだと感じました」。

 井上はこの後悔を新たなステージで晴らすべく、九州の名門・福岡大へと進んだ。

◆挫折を乗り越えた大学時代〜福岡大
 入学当初は「高校でプロになれなくて大学に行くことになったので、もしかしたら『こういう人生なのかもな』って思ったこともあった」という井上。それでも大学1年時から公式戦の出場機会を掴んだことで、「またここからプロを目指せばいいじゃん」という気持ちが芽生えた。同年の冬には1年生で唯一、日韓定期戦の全日本大学選抜に選ばれるまでになった。

2017年のインカレ

 ところが、これは挫折の始まりともなった。「ほとんど4年生の中に1年で一人だけ入って、周りは来季からJ1に入ることが決まっていたりするトップレベルの選手ばかり。大学のトップオブトップを見た後に福大に帰った時に『なんだよ』って思ってしまった」。この不満はチームメートに対するものだけではない。自らのレベルに設けるハードルとしても突きつけられた。

「自分はスペースに出る時のスピードはあるけど、つなぐプレーではイージーなミスが多かったので、そういうところを伸ばさないといけないと思っていた。ただ福大ではやっぱりスピードを求められる。2年の時はそこで悩んで練習を放り投げてしまったこともあったし、先輩や監督から怒られて苦労した。理解してくれる人もなかなかいなくて、そこがキツかった」。

 ただ、そこで改心のきっかけをくれたのも高校時代と同様、恩師からの言葉だった。乾真寛監督は井上に対し、福岡大からロンドン五輪代表に上り詰めたFW永井謙佑を例に声をかけた。入学当初から永井のビデオを見せながら「永井にしかないものもあるし、お前には永井にないものもある」との声をかけられていたこともあり、その“説教”は深く響いた。

「『お前の武器はスピードなんだからその武器を伸ばさないとプロには行けないぞ、まずはスピードで大学3本の指に入らないとJ1に声がかからないぞ』ってことを言われました。『永井もそういうところは悩んでいたけど、武器を伸ばしたヤツが上に行ったんだぞ』って。あとは『足下で受けるだけの井上健太に商品価値はないぞ』って。それを聞いて、たしかにいまの俺には何の価値もないなって思えました」。

 また、井上が「最大の恩師」として名前を挙げる福嶋洋コーチの存在もあった。「気持ちが沈んだ時に目標設定をどうしないといけないのか、どう選択をしたらいいのか、どう心を持てばいいのか、なぜうまくいかないのかを教えてもらいました。あの人がいなかったらプロになれていないし、腐っていたと思う」。福岡などで活躍した元Jリーガーに絶大な感謝を寄せている。

2018年のデンソーチャレンジカップ全日本選抜

◆Jクラブからの誘い〜大分トリニータ
 大分トリニータからの関心を知ったのは大学2年生の時だった。スカウトを務める元Jリーガーの上本大海氏が熱心に福岡大の試合会場を訪れ、同年の冬にはキャンプ参加も誘われた。井上にとって上本氏は「アピールすべき人」というだけでなく、プロのディフェンダー目線でアドバイスをくれる専門アドバイザーのような存在だったという。

「ボールの受け方、スペースの見つけ方など、自分を取るか取らないかは別にして、自分の成長のために的確なアドバイスをしてくださった。自分はただ裏に走るだけだったけど、背後に出たい時に一回外に食いつかせて、相手が出てきた時に裏を狙うとか、動きの細かさが身についた。感覚だけでやっていたので『こうだからこう』って理論的に言ってくれたのが良かったです」。

 こうした元プロ選手の凄みは、実際に練習参加をした際にあらためて大きく感じたという。19年のJ1最優秀監督に輝いた片野坂知宏監督、ポルトガルのポルト大学で専門的なトレーニング理論『戦術的ピリオダイゼーション』を学んだ安田好隆コーチとの出会いだった。

「最初に行った時からすごくやりやすくて、福大だと自分が活かされていない時にもどかしさがあったけど、カタさんのサッカーには直感でビビッときました。『これだ!』って。本当にすごく楽しかった。あとヤスさんもすごいんで、この人たちに教えてもらったらすごいんだろうなって思いました」。

2018年のインカレ

 実際にキャンプやトレーニングの参加を重ねるにつれて、そうした予感は確信へと変わっていった。「自分のスピードを生かす動きのタイミングは大海さんにも教わっていたけど、背後への抜け出し方とか、自分でボールを持ったときのタイミング、あと大分はサイド攻撃が特長なのでクロスを上げるときのタイミングや質をヤスさんに教わった。大学でもためになった」と身についている手応えがあるという。

 また不安に思っていたつなぎのイージーミスも、片野坂監督や安田コーチからかけられたという「誰も持っていないその武器があるんだからどんどんトライすればいいんだよ」という助言で緊張感が解消。「吹っ切れてやってやろうという気持ちになって、挑戦しようと思えた」と前向きにプレーするよう心がけているようだ。

 こうして加入を決断し、いまではチームメートとの関係性も向上しつつあるという。なかでも最も衝撃を受けたのは同じくサイドを主戦場とするMF松本怜。高校・大学時代から爆発的なスピードを武器にしてプロ入りを果たし、横浜FMでは期待どおりの活躍ができない時期もあったが、大分でJ3も経験しながらプレーの幅を広げ続けてきた32歳だ。

「同じポジションなのですごく勉強になったし、あの人はスピードを持ちながらもなんでもできる。コンビネーションもクロスも多才で勉強になる。あとは何より器がでかいです。自分も同じポジションなのにいつもアドバイスをしてくれるし、『お互い切磋琢磨しよう』って言ってくれた。そこでこのチームを選んで正解だったなと思いました」。

 年齢の近いU-23日本代表DF岩田智輝にも尊敬の眼差しを向けている。「智輝くんは余裕があって、守備のアドバイスが的確でした。自分が同じサイドで組むと一番やりやすいし、心の余裕が違う。一個上ですけど人間的な凄さを一番感じた。これが代表選手なのかって思いました」。

 また福岡大にはDF吉平駿(昨年卒業)、GK真木晃平(4年)、FW酒井将輝(3年)、DF横田白心(3年)、GK津村和希(3年)ら多くの大分U-18出身者が在籍しており、彼らがトップチームの選手たちを井上に紹介。「サンペーさん(FW三平和司)がすごく優しいよとか、同じポジションの選手こんな感じですよって教えてくれた」と、ピッチ外の順応にも寄与したようだ。

2019年の総理大臣杯

◆Jリーグと大学サッカー、二足のわらじへ
 井上は今季、特別指定選手としてJ1リーグ戦の出場を目指している。新型コロナウイルスの感染拡大により、週2回の過密日程が組まれているため、今季はとりわけ大きなチャンス。「特別指定だからというのは試合に出たら関係ない。思い切ってやって大分の勝利に貢献したい」と結果にこだわっていく構えだ。

 大分の特別指定選手といえば、13年のJ1リーグ戦で9試合4得点という驚異的な活躍を果たし、J1リーグの最多得点記録を持つFW松田力(甲府)が大きなインパクトを残した。奇しくも井上にとっては立正大淞南高の先輩。「淞南愛が強めな人。オフシーズン一緒にトレーニングすることがあって、自分の試合も見にきてくれた」という縁にあやかりたいところだ。

 井上は当面の間、大学サッカーの再開まで大分の寮に滞在し、Jリーグでの活動をメインに続けていく予定。また大学に戻った後もJリーグの公式戦に出場したいという意向を持っている。目指すは18年、当時早稲田大のMF相馬勇紀が名古屋でJ1リーグ戦に出場しながら、大学サッカーでも活躍を続けていたという姿だ。

 大学1年時には全日本選抜で共にプレーした先輩に続くべく、井上は「自分は大学サッカーの価値もあげたいと思っているし、九州の大学は知名度低いので、Jリーグの舞台でこういうヤツがいるんだよっていうのを見せたい。二足のわらじでどちらも活躍して、どちらでも必要とされる選手になりたいです」と意気込んでいる。

 そして、Jリーグの先には来年に延期となった夢の大舞台も見据えている。「今年あったら絶対にノーチャンスだったけど、Jリーグに関われることになれば……。ほとんど0パーセントだったものが、いまは可能性があるので、可能性は広げていくもの。自分次第だけど頑張りたい」。J1で安定した成果を残せば、東京五輪の選考メンバー入りも夢ではない。

 そして何より、こうして得た貴重な経験は大学サッカー生活最後の一年にすべてぶつけるつもりでいる。

「コロナの影響で大学サッカーの最終学年の前期がこうなってしまったのはショックだけど、それは全世界のみんなが変わらない。最後の年なので、自分が入学してから成し遂げていない全国ベスト4をこれまでやってきた仲間たちと絶対に成し遂げないといけない。そこは自分が引っ張ってやらなきゃいけないという使命がある」。

 これまでのサッカー人生を導いてくれた人たちのため、また自らのキャリアをさらに切り拓いていくため——。「やっぱり福大を出た永井さんのようになりたいです。授業でも永井さんのビデオを見せられることがあって、自分もこうやって見せられるようになりたいなと。そのためには日の丸もつけたいし、大分でステップアップしてもっともっと上の選手になりたいです」。J1再開は7月4日。コロナ禍で1年分の日程が半年間に詰め込まれた異例のシーズン、大学とプロの両立を目指す井上健太の濃密な1年がようやくスタートする。

※学校の協力により、電話で取材をさせて頂きました
(取材・文 竹内達也)

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