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2G1Aオールドファームは「神様が味方してくれた」。同じ“41”から始まった静学時代も振り返るMF旗手怜央(セルティック)単独インタビュー

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MF旗手怜央

 スコットランドの名門セルティックでプレーするMF旗手怜央にとって、2021シーズンからの1年半は激動だった。川崎フロンターレでのレギュラー定着、1年延期で辿り着いた東京五輪、念願だったヨーロッパ挑戦、オールドファームでの大活躍、プロ入り2年半で3度目のリーグ制覇——。スコティッシュ・プレミアシップ優勝の興奮冷めやらぬ5月中旬、ブレイクの最中にある24歳にいまの思いを聞いた。

ただただ“持っているな”としか思っていない


——ここまですさまじい1年半でしたね。率直にどう捉えていますか。
「いまの自分は1年半前には考えられなかったなと。もちろん海外に行きたいという思いはありましたけど、移籍できるとは思っていなかったし、リーグ優勝したかったけど、絶対にできるとは思っていなかった。オリンピックに関しては1年延期じゃなかったら出られていない選手だったので、この1年半はある意味“持ってるな”と思っている部分もあります。自分が頑張ってきたのもあるけど、それにプラス運みたいなものも加わって、すごく充実した1年半になりました」

——クラブと代表との兼ね合いで、ほとんど休みもなかったんじゃないでしょうか。
「完全に休めたという時間はほぼなかったですね。こっちに来てから文化、環境も違うし、いままで周りにいた人がいなくなって、一人で戦わなきゃいけないというのがあったので、どうしても疲労が抜けない部分はあって、徐々に蓄積されたものがあったなと感じています」

——そうした中、プロ入り2年半でリーグ制覇3回です。なかなかできないことですよね。
「まずJリーグで2連覇することもすごいことなんですけど、セルティックも優勝争いをするチームなので、ただただ“持っているな”としか思っていないです。またチームメートに恵まれているなというのをすごく実感しています」

——ただフロンターレでのパフォーマンスも含め、旗手選手が切り拓いてきた道だと思います。セルティックに入ってからも、移籍直後の大活躍が象徴的でしたが、移籍前から欧州挑戦に向けて準備できていたと思わせるプレーを続けていましたよね。そこには“持ってる”以上のものがあったように思います。
「どうですかね(笑)。自分ではあまり分からないですけど、自分が持っている能力や力がその人の結果を示してくれると思うので、そこに関してはちゃんと準備してきてよかったなと思いました。ただ(2ゴール1アシストを記録した)レンジャーズ戦に関しては、本当に神様がいたな、自分の味方をしてくれたなと思っていて。準備してきたものプラス、何回も言うようですが“持ってるな”としか思っていないです」

オールドファームで2ゴール1アシスト

——まさにレンジャーズとのオールドファームは映像で見ていましたが、画面越しにでも伝わる凄まじい雰囲気でした。コロナ禍のJリーグでは、残念ながら大声援を受けてプレーすることはできませんでしたが、気持ちの高ぶりがパフォーマンスに影響した部分もありますか。
「キックオフの直前に初めてあのピッチに立った時は、鳥肌が立ったのは覚えています。ただ、めちゃめちゃ緊張したかというと、そこに関してはいたって冷静だったんですよ。落ち着いていたというか。あの空気感、あのピッチに溶け込めていたのをすごく感じました」

——人によっては“ゾーンに入る”という言い方をすることもありますが、そのような感じなんでしょうか。
「ゾーンに入るというとゾーンなのかもしれないけど、そういう時ってボールがゆっくり見えるとか、相手の動きがゆっくり見えるとかって言うじゃないですか。でも僕はそういう経験はないので、ゾーンが何なのかは分からないです。ただ僕自身、気持ち自体は強いほうだと思っているので、そういった部分が相まって、初めてピッチに立った時にも溶け込めていたのかなと思います」

——ビッグマッチという意味では東京五輪もありましたが、その時とは違いましたか。
「無観客だったのでどうしても難しかったですね。オリンピックというわりには観客がいないし、難しい部分がありました。僕たちがピッチに立つ上で、ファン・サポーターの応援は一番大事です。ああいった声援が相手の脅威になりますし、僕たちを後押ししてくれる存在でもあります。セルティックのファン・サポーターはすごく相手の脅威になるし、僕たちを後押ししてくれる存在だなと感じています」

東京五輪スペイン戦

——フロンターレでもセルティックでも、そうした部分の積み上げがタイトルにつながっている部分もあるんでしょうね。旗手選手から見て、優勝できるチームの共通点を感じることはありますか。
「ありがたいことに優勝させてもらっていますけど、まだまだ僕が共通点を言えるほどではないです。でもやっぱり練習から、監督にしろ、選手にしろ、求めている部分がすごく高いなという感じはします。フロンターレではオニさん(鬼木達監督)がすごく高いモチベーションを与えてくれて、僕たちにすごく高いレベルのプレーを求めていました。いまのアンジェさん(アンジェ・ポステコグルー監督)に関しても、個人として求められるプレーは多いですし、求められるレベルも高いです。毎日の練習がすべてつながっていくというのは毎日言われていて、そこは共通しているのかなと感じています」

——求められるレベルという意味では個人の話もうかがいたいのですが、オールドファームの後、相手選手の警戒が一気に高まりましたよね。あの状況をどのように受け止めていましたか。
「本当にそうだと思います。中盤の選手なのでそれなりにマークもタイトになりましたし、球際の部分でもボールを獲るじゃなく、足首をモロに狙ってくるくらいに来るなと感じていました。そこはレンジャーズ戦で自分の指標を作ったというか、相手からして“これくらいやらないといけない”という指標を作らせたんじゃないかなと思います」

——その中でゴールやアシストという目に見える結果から遠ざかる時期も続きました。チームをよりよく動かすという点で取り組んでいるような印象を受けましたが、そうした時期はどんな試行錯誤をしていたのでしょうか。
「攻撃の選手なので結果が出ない時はすごく苦しいですし、もちろんゴールを決められない、アシストできないというところはモヤモヤした部分はありました。ただ、それ以外にも守備の部分とか、攻撃で前の選手を動かすとか、ゲームを落ち着かせるとか、できることが多くなったなという実感があります。それが僕に求められているプレーなのかどうかは分からないですけど、プレーの幅が広がりました。『今日はちょっとゲーム展開が荒れているな』とか『急いでやってるな』と思った時には落ち着かせたりすることもできましたし、守備の部分で戻るとか行くという部分もできてきた実感はあるので、新たな自分が発見できたと思っています」

高校3年間がいまの自分を作り上げてくれた


——今後に向けても楽しみです。ところで、セルティックではいま背番号『41』を着けていますよね。ずっと家長昭博選手のイメージがあったのですが、今回『ゲキサカ』の過去記事を読んでいると、静岡学園高時代のプレミアリーグWESTデビュー戦で41番を着けている写真を目にしました。もしかして背番号にはこの時のことも影響していますか。


「もともと僕は(川崎F時代と同じ)47番を着けたかったんです。何度か取材で話したことがあると思うんですが、高校時代の練習試合用ユニフォームでずっと着けていた番号で、思い入れがあったので。ただ47番は他の選手(18歳の生え抜きDFデーン・マレー)が着けていて、その時に41が空いていて決めました。もちろん2年間同じチームでやらせてもらった家長選手が着けていた番号で、僕の中で憧れというか、あの人のプレーはすごいなと思っているので着けたいというのもありましたし、トップチームに初めて入った時の背番号というのもありました。そこはずっと秘めていて、誰かに言われたら言おうとは思っていたんですが、実はそういう思いもありました」

——疑問が解けました。あらためて感じたのですが、旗手選手にとって静岡学園で過ごした日々ってとても大きなものなんですね。
「たらればですけど、僕は三重出身なので四中工(四日市中央工業)があったんですが、もし四中工に行ってたらここまで来られていないんじゃないかなとも思います。いや、わかんないですよ。もしかすると四中工でもっとすごい選手になってたかもしれないですし。でもそれくらい静学での3年間はいまの僕を作ったところだなと思います。精神的にもそうですし、技術的な部分もそう。僕は高校3年間がいまの自分を作り上げてくれたと思っています」

プレミアリーグデビュー戦のMF旗手怜央(写真左)

——高校3年間での経験がヨーロッパでの日々につながっていると感じることはありますか。
「サッカーの部分はボールをとにかく触るとか、技術を磨いてきたところが一番大きいです。あと生活面でも、相当苦しい高校1年生の寮生活を経験してきたので、多少のことは我慢できる部分があります(笑)。実はこっちに来てから、1か月くらい家がない生活をしていたんですよ。通訳さんがいたので家に居候させてもらっていたんですけど、その経験もいまになったらいい経験だったなと思えているので、そうやってポジティブなほうに持っていけるのは高校3年間が影響しているのかなと思います」

——結構衝撃的なエピソードなんですが、通訳さんの家からオールドファームに向かっていたんですか(笑)
「ちょうどオールドファームがあった日から居候させてもらいました」

——それまではホテル生活で。
「そうです。僕だけホテル生活をしていて、オールドファームが終わった日に居候させてくださいと言って、居候させてもらいました。その時は結構いろいろと大変でしたね(笑)。苦しい生活をしていましたけど、それがいまにつながっているなと実感しています」

目の前のことをやり続けた先に素晴らしい景色が見える


——3月の代表活動前にそんなこともあったんですね……。最後に日本代表のことも少し聞かせてください。アジア最終予選最終戦のベトナム戦でA代表デビューを飾りましたが、ご自身にとってどのような一戦でしたか。
「ピッチ上で自分自身のプレーを表現できなかった悔しさはあります。もちろん与えられた時間の中で、ピッチで表現できるのもできないのも選手の能力だと思うので、そこにあたっては僕の能力が足りないと実感しました。代表に関しては国を背負って戦うのはすごく光栄なことですし、誰でもできることじゃないので、僕もそこには関わり続けたいと思いますが、まだまだ力がないです。自分の力をもっともっとつけないといけないとは実感しています」

ベトナム戦でA代表デビュー

——今後、代表でこういうふうに戦っていきたいというイメージはありますか。
「正直、イメージはないですね。オリンピックの時も僕はメンバーに入れると思っていなかったので、目の前のことをコツコツやってきた先にそういう大会があったというくらいです。ましてや(A代表の)常連組でもない僕がイメージできているかというとそれは全くないです。これはずっと言い続けているんですが、僕は毎日の積み重ね、毎日の練習や毎日の試合がすべて今後の自分につながっていくと思っているので。イメージできているとすればそれくらいですかね。代表でこんな感じでワールドカップに出てとか、まったくイメージできていないんです。目の前のことをやり続けた先に、素晴らしい景色が見えるんじゃないかなという思いしかないです」

——そうやって結果を残してきたという自負もあると思います。
「そうですね。高校、大学、プロにしろ僕は結構難しい選択をしてきたことが多かったので。それも“あえて”そうしてきました。難しい世界、競争が激しい世界でもまれてやっていって、自分を見つけていくことが自分に合っているので、その延長をいまもやっているという感じですね。もはや僕は絶対に試合に出られるとか、そういうチームに行くのはよくないことだと自分で分かっています。厳しいところで工夫をして、壁を一つ一つ乗り越えていくのが僕のスタイルに合っているかなと思います。なので、これからもそれを続けていくだけです」

——その先にワールドカップも見えてくるのかなと思いますが、現時点でカタールワールドカップをどう見据えていますか。
「そこに絡みたいと思って絡める場所でもないし、僕自身はいまのままでは絶対に出られないと思っています。それが今年のワールドカップであろうが、4年後のワールドカップであろうが同じです。ただ、今後の自分次第では、少しでも可能性を切り拓けるんじゃないかなと思うので、自分自身は少しの可能性にかけてやっていきたいと思っています」

(インタビュー・文 竹内達也)







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