『SEVENDAYS FOOTBALLDAY』:役目(京都産業大・三澤駿介学生コーチ)
東京のユースサッカーの魅力、注目ポイントや国内外サッカーのトピックなどを紹介するコラム、「SEVENDAYS FOOTBALLDAY」
いつものようにアップエリアから試合を見ていると、ふとある感情が湧いてきた。普段はふざけてばかりのヤツらが、日本一を懸けた決勝戦で必死に戦っている。自分が立つことの叶わなくなったピッチで、堂々と躍動している。そうか。コイツらがいたから、自分もここまでやってこられたんだな。そう思ったら、ずっと一緒に時間を重ねてきた仲間たちが、とにかくカッコよく見えたんだ。
「試合中もずっと思っていたんですけど、やっぱりピッチに立って戦っている選手たちはカッコいいし、『支えたい』と思えるような仲間たちじゃなかったら、僕もここまで学生コーチを続けられなかったと思いますし、『このチームで良かったな』ということは試合前からずっと考えていて、『やっぱりこの選手たちと一緒に戦えて誇らしかったな』という想いがありました」。
インカレで初の決勝まで辿り着いた京都産業大の初代“学生コーチ”。三澤駿介(4年=鳥取境高)がこのグループに対して果たしてきた役目は、彼らがこの冬に味わった史上最高の冒険にとって、絶対に必要不可欠だったのだ。
「僕らは一般入部で入ったんですけど、コロナ禍の1年目だったので、京都に行ってもサッカーができない状況だったんです。そんな中で本当に一番最初に会ったのが三澤で、その時からずっと一緒にボールを蹴ったり、自主練をしていたんですよね」。チームの主務を任されている豊永拓弥(4年=大分トリニータU-18)は入学当時を思い出す。彼らが京都産業大の門を叩いたのは2020年。世間に自粛ムードが漂う真っ只中から、三澤の大学生活はスタートする。
地道にBチームで研鑽を積み、年が明けると念願のAチームへ昇格。自身も翌シーズンへの小さくない期待を抱いていたタイミングで、思わぬ事態が三澤の身に降りかかる。「2月のある日の練習の時だったんですけど、フィードを蹴ろうとした選手へプレッシャーを掛けに行ったら、ボールが頭に当たって、そこからすぐに目の焦点が合わなくなって、ずっとぼやけた状況が続いていたんです」。
その日の練習が終わり、夕飯を食べ終わったあたりから明らかに身体が変調をきたし、嘔吐が止まらなくなってしまう。「次の日の朝の練習に行った時に、トレーナーの方に『嘔吐もあって、ちょっとヤバそうです』という話をして、すぐに病院に行ったら『1か月ぐらい休んでから復帰になると思う』と言われました」。よりサッカーに打ち込んでいこうと思っていた矢先に強いられた“1か月の離脱”。だが、その少し後に告げられた現実は、それを遥かに凌駕する残酷なものだった。
「その時にAチームにいたコーチの方に『復帰時期を早められるかもしれないから、セカンドオピニオンを受けてみたらどうか』と言われて、別の大きな病院に検査しに行ったら、正常な方よりも脳波の数値が足りなくて、『これ以上プレーを続けていると、後遺症が残ったり、記憶障害や認知症に掛かるリスクが増すこともある』と言われたんです……」。
薄々は感じていた。少し前に起きたことがぼんやりとしか思い出せないような自覚はあったからだ。「『もうこの先、サッカーを続けるのは難しい』という診断を病院で受けて、それをスタッフに報告しました」。三澤のサッカー選手としてのキャリアは、あまりにも唐突に終焉を突き付けられることとなる。
「もちろん自分がプレーできないのであれば、何かの役に立てるとは思えなかったですし、僕自身もみんながサッカーをするのを見ているのが本当に苦しかったので、『チームを去る』という選択肢の方が大きかったと思います」。自分がボールを蹴っていたグラウンドで、チームメイトが何の憂いもなく、楽しそうにプレーする姿に気持ちが波立つ。サッカー部からの退部に心が傾きかけていたころ、三澤に意外な選択肢がもたらされた。
「『“学生コーチ”としてチームに残ってみないか?』という提案を受けました。『人生を長く見た時に、チームに残って支える側になって成長できた部分が、自分の人間性を作った部分だと思えるようにやってほしい』と古井(裕之)総監督から言われて、それが自分の中では大きな言葉でした。その時に『逃げるのは簡単だな』と、『挑戦してみたいな』と思ったんです」。2021年3月。三澤は京都産業大サッカー部の“学生コーチ”に就任する。
始まりは、まさに“暗中模索”や“五里霧中”と表現したくなるような日々からだった。「そもそも自分の中に“学生コーチ”というイメージがなくて、まず何をしたらいいのか、どんな声を掛けたらいいのか、どういう立ち位置で選手に関わっていけばいいのかもまったくわからなかったです。まだ2年生でしたし、仕事自体も確立されていなかったので、なかなか難しい時期でしたね」。
それまでの京都産業大に“学生コーチ”という役職はなかったため、参考にすべきモデルケースは何一つない。元来の真面目な性格もあって、自分の役割に思い悩む日が続く。
「最初はやっぱりうまく行かなくて、二人で遊びに行った時もおしゃれな喫茶店でノートを広げて練習メニューを考えたりしていましたけど(笑)、真面目に頑張るあの性格があるから、みんなも応援していましたね」と豊永が笑えば、「学生コーチになった時期はプライベートでもずっと一緒にいたので、しんどい想いもわかっていましたし、練習でもちょっと声を出す部分で遠慮している感じがありましたね」と話すのは中野歩(4年=ガンバ大阪ユース)。チームメイトからも励まされながら、少しずつ自分の中でやれることを増やしていく。
大きな転機が訪れたのは、就任から1年ほど経ったころだった。三澤は練習や試合前のウォーミングアップを任されるようになったのだ。「2年の終わりから3年の始まりに掛けて、ウォーミングアップを担当するようになったんです。その時期からは自分のやるべきことの形が見えてきて、あとは質を上げていくだけという段階になったので、そこがポイントだったかなと思います」。
自身の中に1つの軸ができると、他のこともスムーズに回り始める。「はじめは『本当に自分の居場所ができるのかな……』という不安な部分もあったんですけど、自分自身がやりがいを感じられるようになってからは、それこそ『自分がチームを勝たせる』というような自覚も持ちながらやってきたので、自分の立ち位置への安心感は出てきましたね」。気付けばチームの中でも、“学生コーチ”としての立ち位置は明確に認知されつつあった。
2023年。大学ラストイヤーが幕を開ける。入学したころは想像もしていなかった“学生コーチ”として迎える最後の1年を前に、自らが果たすべき役目を誰よりも理解していた三澤は、心の中心に確たる目標を据える。
「初めての学生コーチという立場でチームに残るという決断を自分でして、ラスト1年でチームに何を残せるかというところで、『ケガをした選手だから学生コーチになった』というだけでは、僕がやってきたことの意味がないと思いますし、自分がいる時だけ自分の役割に意味を持たせても、僕としてはやり抜いたと言えないとずっと思っていたので、やっぱり『何か基準を残して卒業したいな』って。この学生コーチという立ち位置に対して、選手たちがその役職を聞いたら頼れる存在だと感じるとか、こういう形でチームに良い影響をもたらしてくれるとか、そういう学生コーチが持つ高い基準というものをチームに残したいという想いがあって、そこはこの1年でずっと意識してやってきたことです」。
とりわけ心掛けたのは、スタッフと選手のスムーズな橋渡し役だ。“学生コーチ”という役職上、自然と監督をはじめとしたチームスタッフと時間を共有することは多くなる。その一方で、選手たちとはプライベートも含めて積み重ねてきた時間も長く、どうしても思い入れは強い。双方の想いがわかる自分だからこそ、やるべきことはある。いや、自分にしかできないことが、必ずあるはずだ。
「プライベートだと4回生と過ごすことが多いので、そっちの意見も結構聞くことも多いんですけど、この1年間は『チームを良くするにはどうしたらいいか』をずっと考えてきた中で、どちらかと言うとスタッフの考えと自分の意見が一致することが多かったので、『スタッフはこういう意図で言っている』ということを自分としても伝えやすかったですし、そういう立ち位置をうまく使えたのかなとは思っています」。
「自分にしかできないことというのは、向き合えば向き合うほどたくさんあって、選手とスタッフのどちらとも近いという学生コーチとしての立ち位置は確立できましたし、ただチームを支えるだけではなくて、チームを作っていく上で必要な人間になりたかったので、そういうことができたのは、続けてきて良かったなと思います。双方の繋ぎ役というか、チームとして戦っていくイメージですよね」。
選手と兼任しながら主務の仕事をまっとうした豊永も、三澤の“立ち位置”に助けられた1人だという。「今までの京産はずっと関西制覇を目標にしていたんですけど、僕らの代で日本一という明確な目標を作った時に、僕も正直『主務に専念するべきなのかな』とも考えたんですけど、三澤がいろいろと助けてくれたから、僕も最後まで選手をやり抜きながら主務をできましたし、三澤は良い意味で選手でもあって、スタッフでもあるので、僕からすれば学生コーチというよりも一人の友人として、何かあったら相談する関係性ですね」。
続けて笑いながら豊永が明かした、“学生コーチ”のこだわりが興味深い。「試合前にチーム独自のタイムスケジュールを作るんですよ。キックオフの何分前に会場入りして、何分前にミーティングして、何分前にウォーミングアップして、何分前に円陣して、と決めるんですけど、そこのタイムスケジュールをアイツは1分刻みに作るんです。トレーナーの方と『なんで1分刻みなん?』と聞いたら、『本当は30秒刻みでやりたい』って(笑)。だから、メチャメチャ自分の仕事にはこだわっていて、責任感と周りに対する厳しさは凄かったですね」。このあたりにも三澤の几帳面な性格が見え隠れする。
「自分が逆の立場になったとしたら、絶対にあそこまで頑張れなかったと思うので、彼の人間性というか、あのひたむきさは本当に尊敬していますし、その尊敬に値するヤツだと思います」(食野壮磨)。
「自分やったらサッカーができんくなったら、チームのことに熱心になられへんと思うんですけど、駿介はあの熱量もそうですし、チームのことを最優先に考えてくれていたところが、やっぱり凄いと思います」(中野)
「三澤本人がこだわって学生コーチをやっているから、厳しく言っても周りが腑に落ちるというか、良い意味でキャプテンの食野と似たような感じを僕は覚えていますね。『シュンが言っているなら、オレらもやらなな』ということはみんなが感じていたと思います」(豊永)
2023年の京都産業大は関西学生リーグを堂々と制し、初優勝という輝かしい成果をその歴史に刻む。試合後には涙を流していた三澤にも、みんなで掴んだ優勝カップが手渡された。真摯に自分の役目と向き合い続けてきた“学生コーチ”の存在は、いつしかこのグループにとっても間違いなく欠かせないものになっていた。
12月24日。カシマサッカースタジアム。1年のシーズンを締めくくるインカレでも強豪を相次いでなぎ倒し、快進撃を披露した京都産業大は決勝へ進出。大学サッカー界の超強豪・明治大と日本一の座を巡って対峙する。
試合前のグラウンドに“学生コーチ”の溌溂とした声が響く。「声をメッチャ出すだけではなくて、雰囲気からしっかり作ってくれて、1年間通して良い雰囲気でやれたので、駿介のアップは良かったと思います(笑)」(中野)「試合に出る前の部分で自分にできることというのは、ウォーミングアップの質を上げて、選手の雰囲気を作ることだと思って、そこにはこだわってやってきたので、チームメイトからの評判がいいのは嬉しいです(笑)」(三澤)。2023年最後のウォーミングアップを終えて、選手たちは決戦の舞台へと歩みを進めていく。
いつものようにアップエリアから試合を見ていると、ふとある感情が湧いてきた。普段はふざけてばかりのヤツらが、日本一を懸けた決勝戦で必死に戦っている。自分が立つことの叶わなくなったピッチで、堂々と躍動している。そうか。コイツらがいたから、自分もここまでやってこられたんだな。そう思ったら、ずっと一緒に時間を重ねてきた仲間たちが、とにかくカッコよく見えたんだ。
「試合中もずっと思っていたんですけど、やっぱりピッチに立って戦っている選手たちはカッコいいし、『支えたい』と思えるような仲間たちじゃなかったら、僕もここまで学生コーチを続けられなかったと思いますし、『このチームで良かったな』ということは試合前からずっと考えていて、『やっぱりこの選手たちと一緒に戦えて誇らしかったな』という想いがありました」。
白いユニフォームを纏った京都産業大の選手たちが、バタバタとピッチへ倒れ込む。0-2。みんなで目指した日本一には、あと一歩及ばなかった。ベンチ前に散らばったビブスを集め、涙に暮れるチームメイトたちを出迎え、声援を送り続けてくれたバックスタンドの仲間たちの元へ向かうと、もうそれ以上は我慢できなかった。
「この4年間一緒に戦ってきた仲間たちがスタンドにもいっぱいいて、それこそ4回生だけじゃなくて、僕自身全部のカテゴリーの練習に参加していて、日ごろから全員の頑張っている姿や練習へ真摯に取り組む姿も見てきた中で、もともと泣かないようにしようということは決めていたんですけど、でも、応援席の前に行ったら、『やっぱりこのチームで日本一を獲りたかったな』という想いが、感情が、こみ上げてきました」。みんなと懸命に戦い続けてきた“学生コーチ”の大学サッカーは、全国大会の決勝戦で涙とともに終演した。
「決勝まで来られたのは凄いことですし、京産の歴史を変えたという想いはあるんですけど、やっぱり最後に勝てなかったという想いが自分の中で強くて、『もっとできることがあったんじゃないかな』って。これまで自分のやってきたことに悔いはないですし、すべてを出し尽くした想いはあるんですけど、悔しい想いの方が強いです」。決勝戦の試合後。取材エリアで話を聞いた三澤は、目標に届かなかった悔しさを言葉に滲ませる。
ただ、本人も話していたように、“学生コーチ”という役目と向き合ってきた3年間を、全力でやり切ったという手応えも確かに感じていた。
「自分自身支える側になってみて、人間として大きく成長できたと思いますし、そういうことを大切にしてくれるチームスタッフがいて、チームの方針があったので、自分の身の回りにいらっしゃった大人の方々には、本当に恵まれていたと思っています。僕らのような支える側に対してもフォーカスして、いろいろアドバイスしてくれたりするチームは多くないんじゃないかなと思いますし、これは当たり前の環境ではないと思っていて、自分に対して厳しい声を掛けてくださることもあって、居心地が良いだけの環境ではなかったというのは、僕にとっても最高の環境だったと思います」
「人間性の部分で忍耐力や礼節というのは、この4年間で大きく成長できたと思いますし、学生コーチとして人前でしゃべる立場や自分の行動に対する責任も伴ってくる役職になってみて、以前は人からどう見られるかという意識や、自分の言うことに対する説得力が足りない部分だったんだなと気付けたので、この学生コーチをやり切ったことが自分の人生の中で本当に大きなターニングポイントになるというのは、現時点でも実感できていますし、この先も思っていくことなんだろうなということは感じています」。
実は三澤には直属の“後輩”ができていた。昨年の4月に1年生が“学生コーチ”として入部してきたのだ。「一般でサッカー部のセレクションを受けていた子なんですけど、『選手として入部できないようなら、学生コーチとして入部させてもらえませんか?』ということは事前に連絡してきていて、セレクションは落ちてしまったんですけど、学生コーチとして入部することになりました」と明かしてくれた“先輩”は、自身の経験も踏まえて“後輩”への期待をこう口にする。
「僕自身も2年のころは自分の実力不足を大きく実感する機会が本当に多くあって、沈む時期もあったんですけど、そういう難しい時期を超えていかないと成長はないと思うので、今の1年生の学生コーチもいろいろな難しいことに直面すると思うんですけど、来年からも頑張ってもらいたいなと思いますね」。
「やっぱり自分の熱量とかチームに対する想いを基準にして、そこもどんどん高いものに上げていってほしいと思いますし、ピッチに立つ選手がチームを勝たせたいと思うのは当たり前ですけど、支える側がチームを勝たせたいと思えるようなチームになってほしい想いもあるので、これから先もそういうものをどんどんチームに残していってほしいなと思います」。なかなかハードルの高いミッションだが、“初代学生コーチ”の背中が残していった揺るがぬ“基準”は、きっとこれからのチームにも確実に受け継がれていく。
望んで就いたポジションではない。大好きなサッカーだって嫌いになりかけていた。でも、三澤が決意して、覚悟して、背負い続けてきた役目は、チームメイトも、何より自分自身も、大きく成長させてくれた。キャプテンの食野壮磨(4年=ガンバ大阪ユース/東京V内定)が、みんなの想いを過不足なく代弁する。
「アイツへの想いは一言では言い表せないですけど、僕たちの世代に駿介がいてくれたおかげで、ここまで来れましたし、こういう成績を残せたと思うので、本当にこのチームにとって欠かせない存在でした」。
インカレで初の決勝まで辿り着いた京都産業大の初代“学生コーチ”。三澤駿介がこのグループに対して果たしてきた役目は、彼らがこの冬に味わった史上最高の冒険にとって、絶対に必要不可欠だったのだ。
■執筆者紹介:
土屋雅史
「群馬県立高崎高3年時にはインターハイで全国ベスト8に入り、大会優秀選手に選出。著書に『蹴球ヒストリア: 「サッカーに魅入られた同志たち」の幸せな来歴』『高校サッカー 新時代を戦う監督たち』
▼関連リンク
SEVENDAYS FOOTBALLDAY by 土屋雅史
いつものようにアップエリアから試合を見ていると、ふとある感情が湧いてきた。普段はふざけてばかりのヤツらが、日本一を懸けた決勝戦で必死に戦っている。自分が立つことの叶わなくなったピッチで、堂々と躍動している。そうか。コイツらがいたから、自分もここまでやってこられたんだな。そう思ったら、ずっと一緒に時間を重ねてきた仲間たちが、とにかくカッコよく見えたんだ。
「試合中もずっと思っていたんですけど、やっぱりピッチに立って戦っている選手たちはカッコいいし、『支えたい』と思えるような仲間たちじゃなかったら、僕もここまで学生コーチを続けられなかったと思いますし、『このチームで良かったな』ということは試合前からずっと考えていて、『やっぱりこの選手たちと一緒に戦えて誇らしかったな』という想いがありました」。
インカレで初の決勝まで辿り着いた京都産業大の初代“学生コーチ”。三澤駿介(4年=鳥取境高)がこのグループに対して果たしてきた役目は、彼らがこの冬に味わった史上最高の冒険にとって、絶対に必要不可欠だったのだ。
「僕らは一般入部で入ったんですけど、コロナ禍の1年目だったので、京都に行ってもサッカーができない状況だったんです。そんな中で本当に一番最初に会ったのが三澤で、その時からずっと一緒にボールを蹴ったり、自主練をしていたんですよね」。チームの主務を任されている豊永拓弥(4年=大分トリニータU-18)は入学当時を思い出す。彼らが京都産業大の門を叩いたのは2020年。世間に自粛ムードが漂う真っ只中から、三澤の大学生活はスタートする。
地道にBチームで研鑽を積み、年が明けると念願のAチームへ昇格。自身も翌シーズンへの小さくない期待を抱いていたタイミングで、思わぬ事態が三澤の身に降りかかる。「2月のある日の練習の時だったんですけど、フィードを蹴ろうとした選手へプレッシャーを掛けに行ったら、ボールが頭に当たって、そこからすぐに目の焦点が合わなくなって、ずっとぼやけた状況が続いていたんです」。
その日の練習が終わり、夕飯を食べ終わったあたりから明らかに身体が変調をきたし、嘔吐が止まらなくなってしまう。「次の日の朝の練習に行った時に、トレーナーの方に『嘔吐もあって、ちょっとヤバそうです』という話をして、すぐに病院に行ったら『1か月ぐらい休んでから復帰になると思う』と言われました」。よりサッカーに打ち込んでいこうと思っていた矢先に強いられた“1か月の離脱”。だが、その少し後に告げられた現実は、それを遥かに凌駕する残酷なものだった。
「その時にAチームにいたコーチの方に『復帰時期を早められるかもしれないから、セカンドオピニオンを受けてみたらどうか』と言われて、別の大きな病院に検査しに行ったら、正常な方よりも脳波の数値が足りなくて、『これ以上プレーを続けていると、後遺症が残ったり、記憶障害や認知症に掛かるリスクが増すこともある』と言われたんです……」。
薄々は感じていた。少し前に起きたことがぼんやりとしか思い出せないような自覚はあったからだ。「『もうこの先、サッカーを続けるのは難しい』という診断を病院で受けて、それをスタッフに報告しました」。三澤のサッカー選手としてのキャリアは、あまりにも唐突に終焉を突き付けられることとなる。
「もちろん自分がプレーできないのであれば、何かの役に立てるとは思えなかったですし、僕自身もみんながサッカーをするのを見ているのが本当に苦しかったので、『チームを去る』という選択肢の方が大きかったと思います」。自分がボールを蹴っていたグラウンドで、チームメイトが何の憂いもなく、楽しそうにプレーする姿に気持ちが波立つ。サッカー部からの退部に心が傾きかけていたころ、三澤に意外な選択肢がもたらされた。
「『“学生コーチ”としてチームに残ってみないか?』という提案を受けました。『人生を長く見た時に、チームに残って支える側になって成長できた部分が、自分の人間性を作った部分だと思えるようにやってほしい』と古井(裕之)総監督から言われて、それが自分の中では大きな言葉でした。その時に『逃げるのは簡単だな』と、『挑戦してみたいな』と思ったんです」。2021年3月。三澤は京都産業大サッカー部の“学生コーチ”に就任する。
始まりは、まさに“暗中模索”や“五里霧中”と表現したくなるような日々からだった。「そもそも自分の中に“学生コーチ”というイメージがなくて、まず何をしたらいいのか、どんな声を掛けたらいいのか、どういう立ち位置で選手に関わっていけばいいのかもまったくわからなかったです。まだ2年生でしたし、仕事自体も確立されていなかったので、なかなか難しい時期でしたね」。
それまでの京都産業大に“学生コーチ”という役職はなかったため、参考にすべきモデルケースは何一つない。元来の真面目な性格もあって、自分の役割に思い悩む日が続く。
「最初はやっぱりうまく行かなくて、二人で遊びに行った時もおしゃれな喫茶店でノートを広げて練習メニューを考えたりしていましたけど(笑)、真面目に頑張るあの性格があるから、みんなも応援していましたね」と豊永が笑えば、「学生コーチになった時期はプライベートでもずっと一緒にいたので、しんどい想いもわかっていましたし、練習でもちょっと声を出す部分で遠慮している感じがありましたね」と話すのは中野歩(4年=ガンバ大阪ユース)。チームメイトからも励まされながら、少しずつ自分の中でやれることを増やしていく。
大きな転機が訪れたのは、就任から1年ほど経ったころだった。三澤は練習や試合前のウォーミングアップを任されるようになったのだ。「2年の終わりから3年の始まりに掛けて、ウォーミングアップを担当するようになったんです。その時期からは自分のやるべきことの形が見えてきて、あとは質を上げていくだけという段階になったので、そこがポイントだったかなと思います」。
自身の中に1つの軸ができると、他のこともスムーズに回り始める。「はじめは『本当に自分の居場所ができるのかな……』という不安な部分もあったんですけど、自分自身がやりがいを感じられるようになってからは、それこそ『自分がチームを勝たせる』というような自覚も持ちながらやってきたので、自分の立ち位置への安心感は出てきましたね」。気付けばチームの中でも、“学生コーチ”としての立ち位置は明確に認知されつつあった。
2023年。大学ラストイヤーが幕を開ける。入学したころは想像もしていなかった“学生コーチ”として迎える最後の1年を前に、自らが果たすべき役目を誰よりも理解していた三澤は、心の中心に確たる目標を据える。
「初めての学生コーチという立場でチームに残るという決断を自分でして、ラスト1年でチームに何を残せるかというところで、『ケガをした選手だから学生コーチになった』というだけでは、僕がやってきたことの意味がないと思いますし、自分がいる時だけ自分の役割に意味を持たせても、僕としてはやり抜いたと言えないとずっと思っていたので、やっぱり『何か基準を残して卒業したいな』って。この学生コーチという立ち位置に対して、選手たちがその役職を聞いたら頼れる存在だと感じるとか、こういう形でチームに良い影響をもたらしてくれるとか、そういう学生コーチが持つ高い基準というものをチームに残したいという想いがあって、そこはこの1年でずっと意識してやってきたことです」。
とりわけ心掛けたのは、スタッフと選手のスムーズな橋渡し役だ。“学生コーチ”という役職上、自然と監督をはじめとしたチームスタッフと時間を共有することは多くなる。その一方で、選手たちとはプライベートも含めて積み重ねてきた時間も長く、どうしても思い入れは強い。双方の想いがわかる自分だからこそ、やるべきことはある。いや、自分にしかできないことが、必ずあるはずだ。
「プライベートだと4回生と過ごすことが多いので、そっちの意見も結構聞くことも多いんですけど、この1年間は『チームを良くするにはどうしたらいいか』をずっと考えてきた中で、どちらかと言うとスタッフの考えと自分の意見が一致することが多かったので、『スタッフはこういう意図で言っている』ということを自分としても伝えやすかったですし、そういう立ち位置をうまく使えたのかなとは思っています」。
「自分にしかできないことというのは、向き合えば向き合うほどたくさんあって、選手とスタッフのどちらとも近いという学生コーチとしての立ち位置は確立できましたし、ただチームを支えるだけではなくて、チームを作っていく上で必要な人間になりたかったので、そういうことができたのは、続けてきて良かったなと思います。双方の繋ぎ役というか、チームとして戦っていくイメージですよね」。
選手と兼任しながら主務の仕事をまっとうした豊永も、三澤の“立ち位置”に助けられた1人だという。「今までの京産はずっと関西制覇を目標にしていたんですけど、僕らの代で日本一という明確な目標を作った時に、僕も正直『主務に専念するべきなのかな』とも考えたんですけど、三澤がいろいろと助けてくれたから、僕も最後まで選手をやり抜きながら主務をできましたし、三澤は良い意味で選手でもあって、スタッフでもあるので、僕からすれば学生コーチというよりも一人の友人として、何かあったら相談する関係性ですね」。
続けて笑いながら豊永が明かした、“学生コーチ”のこだわりが興味深い。「試合前にチーム独自のタイムスケジュールを作るんですよ。キックオフの何分前に会場入りして、何分前にミーティングして、何分前にウォーミングアップして、何分前に円陣して、と決めるんですけど、そこのタイムスケジュールをアイツは1分刻みに作るんです。トレーナーの方と『なんで1分刻みなん?』と聞いたら、『本当は30秒刻みでやりたい』って(笑)。だから、メチャメチャ自分の仕事にはこだわっていて、責任感と周りに対する厳しさは凄かったですね」。このあたりにも三澤の几帳面な性格が見え隠れする。
「自分が逆の立場になったとしたら、絶対にあそこまで頑張れなかったと思うので、彼の人間性というか、あのひたむきさは本当に尊敬していますし、その尊敬に値するヤツだと思います」(食野壮磨)。
「自分やったらサッカーができんくなったら、チームのことに熱心になられへんと思うんですけど、駿介はあの熱量もそうですし、チームのことを最優先に考えてくれていたところが、やっぱり凄いと思います」(中野)
「三澤本人がこだわって学生コーチをやっているから、厳しく言っても周りが腑に落ちるというか、良い意味でキャプテンの食野と似たような感じを僕は覚えていますね。『シュンが言っているなら、オレらもやらなな』ということはみんなが感じていたと思います」(豊永)
2023年の京都産業大は関西学生リーグを堂々と制し、初優勝という輝かしい成果をその歴史に刻む。試合後には涙を流していた三澤にも、みんなで掴んだ優勝カップが手渡された。真摯に自分の役目と向き合い続けてきた“学生コーチ”の存在は、いつしかこのグループにとっても間違いなく欠かせないものになっていた。
優勝カップを手に笑顔を見せる三澤。右は主務の豊永拓弥
12月24日。カシマサッカースタジアム。1年のシーズンを締めくくるインカレでも強豪を相次いでなぎ倒し、快進撃を披露した京都産業大は決勝へ進出。大学サッカー界の超強豪・明治大と日本一の座を巡って対峙する。
試合前のグラウンドに“学生コーチ”の溌溂とした声が響く。「声をメッチャ出すだけではなくて、雰囲気からしっかり作ってくれて、1年間通して良い雰囲気でやれたので、駿介のアップは良かったと思います(笑)」(中野)「試合に出る前の部分で自分にできることというのは、ウォーミングアップの質を上げて、選手の雰囲気を作ることだと思って、そこにはこだわってやってきたので、チームメイトからの評判がいいのは嬉しいです(笑)」(三澤)。2023年最後のウォーミングアップを終えて、選手たちは決戦の舞台へと歩みを進めていく。
いつものようにアップエリアから試合を見ていると、ふとある感情が湧いてきた。普段はふざけてばかりのヤツらが、日本一を懸けた決勝戦で必死に戦っている。自分が立つことの叶わなくなったピッチで、堂々と躍動している。そうか。コイツらがいたから、自分もここまでやってこられたんだな。そう思ったら、ずっと一緒に時間を重ねてきた仲間たちが、とにかくカッコよく見えたんだ。
「試合中もずっと思っていたんですけど、やっぱりピッチに立って戦っている選手たちはカッコいいし、『支えたい』と思えるような仲間たちじゃなかったら、僕もここまで学生コーチを続けられなかったと思いますし、『このチームで良かったな』ということは試合前からずっと考えていて、『やっぱりこの選手たちと一緒に戦えて誇らしかったな』という想いがありました」。
白いユニフォームを纏った京都産業大の選手たちが、バタバタとピッチへ倒れ込む。0-2。みんなで目指した日本一には、あと一歩及ばなかった。ベンチ前に散らばったビブスを集め、涙に暮れるチームメイトたちを出迎え、声援を送り続けてくれたバックスタンドの仲間たちの元へ向かうと、もうそれ以上は我慢できなかった。
「この4年間一緒に戦ってきた仲間たちがスタンドにもいっぱいいて、それこそ4回生だけじゃなくて、僕自身全部のカテゴリーの練習に参加していて、日ごろから全員の頑張っている姿や練習へ真摯に取り組む姿も見てきた中で、もともと泣かないようにしようということは決めていたんですけど、でも、応援席の前に行ったら、『やっぱりこのチームで日本一を獲りたかったな』という想いが、感情が、こみ上げてきました」。みんなと懸命に戦い続けてきた“学生コーチ”の大学サッカーは、全国大会の決勝戦で涙とともに終演した。
「決勝まで来られたのは凄いことですし、京産の歴史を変えたという想いはあるんですけど、やっぱり最後に勝てなかったという想いが自分の中で強くて、『もっとできることがあったんじゃないかな』って。これまで自分のやってきたことに悔いはないですし、すべてを出し尽くした想いはあるんですけど、悔しい想いの方が強いです」。決勝戦の試合後。取材エリアで話を聞いた三澤は、目標に届かなかった悔しさを言葉に滲ませる。
ただ、本人も話していたように、“学生コーチ”という役目と向き合ってきた3年間を、全力でやり切ったという手応えも確かに感じていた。
「自分自身支える側になってみて、人間として大きく成長できたと思いますし、そういうことを大切にしてくれるチームスタッフがいて、チームの方針があったので、自分の身の回りにいらっしゃった大人の方々には、本当に恵まれていたと思っています。僕らのような支える側に対してもフォーカスして、いろいろアドバイスしてくれたりするチームは多くないんじゃないかなと思いますし、これは当たり前の環境ではないと思っていて、自分に対して厳しい声を掛けてくださることもあって、居心地が良いだけの環境ではなかったというのは、僕にとっても最高の環境だったと思います」
「人間性の部分で忍耐力や礼節というのは、この4年間で大きく成長できたと思いますし、学生コーチとして人前でしゃべる立場や自分の行動に対する責任も伴ってくる役職になってみて、以前は人からどう見られるかという意識や、自分の言うことに対する説得力が足りない部分だったんだなと気付けたので、この学生コーチをやり切ったことが自分の人生の中で本当に大きなターニングポイントになるというのは、現時点でも実感できていますし、この先も思っていくことなんだろうなということは感じています」。
実は三澤には直属の“後輩”ができていた。昨年の4月に1年生が“学生コーチ”として入部してきたのだ。「一般でサッカー部のセレクションを受けていた子なんですけど、『選手として入部できないようなら、学生コーチとして入部させてもらえませんか?』ということは事前に連絡してきていて、セレクションは落ちてしまったんですけど、学生コーチとして入部することになりました」と明かしてくれた“先輩”は、自身の経験も踏まえて“後輩”への期待をこう口にする。
「僕自身も2年のころは自分の実力不足を大きく実感する機会が本当に多くあって、沈む時期もあったんですけど、そういう難しい時期を超えていかないと成長はないと思うので、今の1年生の学生コーチもいろいろな難しいことに直面すると思うんですけど、来年からも頑張ってもらいたいなと思いますね」。
「やっぱり自分の熱量とかチームに対する想いを基準にして、そこもどんどん高いものに上げていってほしいと思いますし、ピッチに立つ選手がチームを勝たせたいと思うのは当たり前ですけど、支える側がチームを勝たせたいと思えるようなチームになってほしい想いもあるので、これから先もそういうものをどんどんチームに残していってほしいなと思います」。なかなかハードルの高いミッションだが、“初代学生コーチ”の背中が残していった揺るがぬ“基準”は、きっとこれからのチームにも確実に受け継がれていく。
望んで就いたポジションではない。大好きなサッカーだって嫌いになりかけていた。でも、三澤が決意して、覚悟して、背負い続けてきた役目は、チームメイトも、何より自分自身も、大きく成長させてくれた。キャプテンの食野壮磨(4年=ガンバ大阪ユース/東京V内定)が、みんなの想いを過不足なく代弁する。
「アイツへの想いは一言では言い表せないですけど、僕たちの世代に駿介がいてくれたおかげで、ここまで来れましたし、こういう成績を残せたと思うので、本当にこのチームにとって欠かせない存在でした」。
インカレで初の決勝まで辿り着いた京都産業大の初代“学生コーチ”。三澤駿介がこのグループに対して果たしてきた役目は、彼らがこの冬に味わった史上最高の冒険にとって、絶対に必要不可欠だったのだ。
■執筆者紹介:
土屋雅史
「群馬県立高崎高3年時にはインターハイで全国ベスト8に入り、大会優秀選手に選出。著書に『蹴球ヒストリア: 「サッカーに魅入られた同志たち」の幸せな来歴』『高校サッカー 新時代を戦う監督たち』
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SEVENDAYS FOOTBALLDAY by 土屋雅史