過去の苦悩を明かしたデ・ブルイネ「何時間もフェンスに向かってボールを蹴った」
ベルギー代表のMFケビン・デ・ブライネ(マンチェスター・シティ)は、チェルシー時代の指揮官だったジョゼ・モウリーニョ氏と在籍期間の間でわずか2度しか話していなかったようだ。当時の苦悩を『ザ・プレイヤーズ・トリビューン』の中で明かしている。
デ・ブルイネは2012年、ベルギーのゲンクからチェルシーへ移籍。ブレーメンへのローン移籍を経た後、13年夏に復帰を果たした。だが、当時の指揮官はモウリーニョ氏。最初の4試合中2試合に先発したものの、その後はわずか1試合しか出番は訪れなかった。
「モウリーニョと僕の関係はいろいろ書かれていたけど、実際はほとんど話したことすらなかったんだ。僕はあの頃ずっとレンタル移籍できないかどうか考えていたから」。
「モウリーニョは最初、僕に『君は残るべきだ。このチームの一員になってほしい』とメールをくれた。だから僕も、彼のプランの中に入っていることを嬉しく思った」。
前半戦を終えようとしていた頃、事態は進展を見せた。
「12月になってジョゼのオフィスに呼ばれた。おそらくあれが二度目の人生が変わる瞬間だった。彼は僕の前に何枚かの紙を出して言ったんだ。『1アシスト0ゴール。10回のリカバリーだ』と」。
「彼が何をしているのか理解するのに時間がかかった。それから彼は、他の攻撃の選手のスタッツを読み上げた。ウィリアンやオスカー、マタ、シュールレのね。彼らは5ゴール、10アシストしているとかそんな感じで」。
「ジョゼは僕が何か言うのを待っているようだった。だから僕も最終的に話した。『だけど……彼らの中には15試合とか20試合に出場している選手もいる。僕は3試合か出場していない。だから状況が違うのでは?』とね」。
反論はしてみたものの、自らが必要とされているかどうかは明白だった。
「とても変な雰囲気だったよ。僕はただ実直に話しただけだ。『クラブは僕のことを必要としていないと感じている。僕はサッカーがしたい。だから僕を売ってくれ』と伝えたんだ」。
その1か月後、デ・ブルイネは1800万ポンドでボルフスブルクに完全移籍した。2シーズン半でリーグ戦51試合に出場し、13ゴールという華々しい活躍を披露。そして15-16シーズン途中、5500万ポンドでマンチェスター・Cに移籍することになった。
もっとも、栄光に至るまでの苦難はチェルシー時代だけではなかった。デ・ブルイネの言う最初の人生の転機は14歳の頃。ベルギーに住む家族から離れてゲンクのアカデミーに入った時のことだ。
アカデミーに入って2年目、デ・ブルイネはクラブが斡旋した里親と暮らしていた。だがそのシーズン終了後、里親から戻ってこなくていいと告げられたという。
「人間性が気に入らないと言われたよ。里親は、僕が静かすぎて興味が持てないと話していた。難しい子供だと」。
「僕は何時間もフェンスに向かってボールを蹴った。そのとき『すべてはうまくいく。2カ月以内にファーストチームに加わるんだ。何をしたとしても、失敗したまま実家に帰ることはない』と大声で叫んだ。あの頃のことはいまでも覚えている」。
翌シーズン、デ・ブルイネはゲンクのセカンドチームに入り、1試合の半分の時間で5ゴールを記録した。
「クラブの誰もが僕に対する態度を変えたのがわかった。2カ月でファーストチームに移ったよ」。
「調子がいいと、サッカーではみんなの態度が変わるんだ。あの変わりようは面白かったね」。
また例の里親も手のひらを返して、デ・ブルイネにはぜひ戻ってほしいと言った。
「彼らには本当に傷つけられた。だから言ったんだ。『嫌だね。あなたたちは僕をゴミ箱に捨てた。それらのにいま僕の調子がいいから戻ってほしいって?』」。
「いま考えると、僕は彼らに『ありがとう』と言うべきだったんだろう。あのときの経験があったからこそ、いまのキャリアがあるわけだから。だけど残念なことに、あの頃のことはずっと心に影を落としていた」。
それから10数年間、ワールドクラスのフットボーラーとなったいまも、心の中には辛苦の記憶が残っている。
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デ・ブルイネは2012年、ベルギーのゲンクからチェルシーへ移籍。ブレーメンへのローン移籍を経た後、13年夏に復帰を果たした。だが、当時の指揮官はモウリーニョ氏。最初の4試合中2試合に先発したものの、その後はわずか1試合しか出番は訪れなかった。
「モウリーニョと僕の関係はいろいろ書かれていたけど、実際はほとんど話したことすらなかったんだ。僕はあの頃ずっとレンタル移籍できないかどうか考えていたから」。
「モウリーニョは最初、僕に『君は残るべきだ。このチームの一員になってほしい』とメールをくれた。だから僕も、彼のプランの中に入っていることを嬉しく思った」。
前半戦を終えようとしていた頃、事態は進展を見せた。
「12月になってジョゼのオフィスに呼ばれた。おそらくあれが二度目の人生が変わる瞬間だった。彼は僕の前に何枚かの紙を出して言ったんだ。『1アシスト0ゴール。10回のリカバリーだ』と」。
「彼が何をしているのか理解するのに時間がかかった。それから彼は、他の攻撃の選手のスタッツを読み上げた。ウィリアンやオスカー、マタ、シュールレのね。彼らは5ゴール、10アシストしているとかそんな感じで」。
「ジョゼは僕が何か言うのを待っているようだった。だから僕も最終的に話した。『だけど……彼らの中には15試合とか20試合に出場している選手もいる。僕は3試合か出場していない。だから状況が違うのでは?』とね」。
反論はしてみたものの、自らが必要とされているかどうかは明白だった。
「とても変な雰囲気だったよ。僕はただ実直に話しただけだ。『クラブは僕のことを必要としていないと感じている。僕はサッカーがしたい。だから僕を売ってくれ』と伝えたんだ」。
その1か月後、デ・ブルイネは1800万ポンドでボルフスブルクに完全移籍した。2シーズン半でリーグ戦51試合に出場し、13ゴールという華々しい活躍を披露。そして15-16シーズン途中、5500万ポンドでマンチェスター・Cに移籍することになった。
もっとも、栄光に至るまでの苦難はチェルシー時代だけではなかった。デ・ブルイネの言う最初の人生の転機は14歳の頃。ベルギーに住む家族から離れてゲンクのアカデミーに入った時のことだ。
アカデミーに入って2年目、デ・ブルイネはクラブが斡旋した里親と暮らしていた。だがそのシーズン終了後、里親から戻ってこなくていいと告げられたという。
「人間性が気に入らないと言われたよ。里親は、僕が静かすぎて興味が持てないと話していた。難しい子供だと」。
「僕は何時間もフェンスに向かってボールを蹴った。そのとき『すべてはうまくいく。2カ月以内にファーストチームに加わるんだ。何をしたとしても、失敗したまま実家に帰ることはない』と大声で叫んだ。あの頃のことはいまでも覚えている」。
翌シーズン、デ・ブルイネはゲンクのセカンドチームに入り、1試合の半分の時間で5ゴールを記録した。
「クラブの誰もが僕に対する態度を変えたのがわかった。2カ月でファーストチームに移ったよ」。
「調子がいいと、サッカーではみんなの態度が変わるんだ。あの変わりようは面白かったね」。
また例の里親も手のひらを返して、デ・ブルイネにはぜひ戻ってほしいと言った。
「彼らには本当に傷つけられた。だから言ったんだ。『嫌だね。あなたたちは僕をゴミ箱に捨てた。それらのにいま僕の調子がいいから戻ってほしいって?』」。
「いま考えると、僕は彼らに『ありがとう』と言うべきだったんだろう。あのときの経験があったからこそ、いまのキャリアがあるわけだから。だけど残念なことに、あの頃のことはずっと心に影を落としていた」。
それから10数年間、ワールドクラスのフットボーラーとなったいまも、心の中には辛苦の記憶が残っている。
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